#哲学

私の回り道

最後の授業岐生研理論学習会。 久しぶりに一時間半ほど喋りまくった。自分の人生を語るように。まさに回り道の人生だった。 その回り道とはどういいう意味があるのか。パワーポイントのレジメ。 「人間化」とは「数学」を「具体的な一人一人」に合うようにあ…

三木における科学

例によって図にしてみる。 ← 個別化・帰納 ←特殊・部分・一 ⇆ 概念 ⇆ 判断 ⇆ 推理 ⇆ 一般・全体・多 → 一般化・演繹 → 個別性は特殊性と一般性との統一である。図の個別化は特殊化の方がいいかもしれない。三木のとらえる帰納と演繹は逆のような気がする。ま…

三木清における技術のはたらき

三木の思想の要は技術である。技術とは表現。だからすべてのものは技術を持っている。 身体の構造 → 技術的な形 ↓ 自然 → 自然の技術(これはとても魅力的) ↓ 道具(物的技術)↔ 人格的技術(教育・学び) この言葉で客観と主観の対立を統合すると、 環境化…

主観と客観の矛盾をどう統一するか

眠れなくて朝2時ごろに目が覚めてしまった。そのまま「哲学入門」を読み始める。 例によって書きながら考えていこう。三木の弁証法は形成で統一される。 世界がそれにおいてある世界は絶対に主体的なものであり、一切のものはこの世界から作られ、この世界…

「おのずからの現象」と「みずからの体験」

ジャガイモを収穫してから、切立のいきいき教室に参加した。皆さん実に生き生きしている。最後に「さようなら」の語源を示して「さようなら」を言った。「左様なら」(そうであったなあ。そうであったなら。)板書を消さないでほしいといわれた。 このところ…

空也上人像

「南无阿弥陀仏」を説明するときいつもこの像の写真を見ていただく。念仏の相をこんなに見事に表現しているコトは他には見当たらないからだ。 この図は拡大したり動かしたりして、他の位置からも見える。 六波羅蜜寺で直接見たときは、一方向からしか見えな…

死すべきものとしての人間―「生と死の思想」

今まで見ようとは思わなかったビデオを3回も見ている。 YouTubeを見ていたら、「テレビで再生」というアイコンが出てきた。どうやら息子がテレビに機械を取り付けたので出てきたものだろう。これで、YouTubeのビデオをTVで見ることができる。この世界はどう…

表現とは譬え

さっき、お夕事で教行信証を読んでいたら、次のお言葉が目に留まった。 しかれば凡小修し易き真教、愚鈍往き易き捷径なり。 (このようなわけで、 浄土の教えは凡夫にも修めやすいまことの教えなのであり、 愚かなものにも往きやすい近道なのである。) 浄土の…

「ダンゴムシに心はあるのか」を再読

ずいぶん前に買って読んだのだけど、理解できなかった本がこれ。ダンゴムシに心があると思えなかった。心って何かわからなかった。 でも、どうも気になっていて、NNを考えていた時、再度読もうと手に取った。 作者は森山徹氏。彼がこのことを計算予期シス…

仏教と科学と哲学

レンマの論理を根底から調べてみようと思っている。 中村元先生と佐藤文隆先生の対談があったので見た。 真ん中より少し後に、中村先生が仏教の論理学「因明」について説明をして、形式論理学では「Aか¬Aかどちらか」でどちらでもあったら誤謬であるとな…

仏教とギリシャ思想の対話

レンマの論理とロゴスの論理の対比はインド思想とギリシャ思想の対比である。 仏像がガンダーラから起こったように、美術においてギリシャ思想と仏教は相互に影響を与えてきた。 そして、思想的にも交流があり、この交流(対話)によってレンマの論理がより…

絶対無の形而上学

呼応関係(神性) ←→ 人間[我性・我執] ↓ 本来的自己の実現 この( )の中に(仏性)を入れ、[ ]に[我執・煩悩]を入れると道元さん。 同様に、(無上仏)[無明・煩悩具足の凡夫]を入れると親鸞さん。 ちなみに最初の図はエックハルト。 この図が面白…

レンマとロゴスの対比

レンマ的論理を使っていろいろ考察して来たけど、ロゴス的論理とどう違うんだろうか。そんなことを調べてみたくなって対比してみた。この対比は、ロゴス的だけど、対立させるのでなく差異を考察するのはレンマ的。 レンマ的思想 ロゴス的思想 東洋・中洋(森…

レンマの論理に関するサイトの紹介

昨日は草刈りをした。電動の草刈り機だけど30分はもつ。動かすのもけっこうしんどいのでこれで十分である。 今まで手で鎌を使ってやっていたけど大変だった。これで、やれる範囲がぐっと広がった。さて、レンマの論理に関わるサイトをメモしておく。これは…

金沢へ

息子の家族と一緒に金沢へ行った。孫と一緒に過ごせたのが一番うれしかった。次は県立図書館で宮川五平治の略伝を見たこと。そして鈴木大拙館と西田幾多郎記念館を訪ねたこと。略伝はまだ図書館の許可がおりていないので、写真を紹介できない。大拙館はほと…

レンマの論理とイメージ

法話では論理を前面に出すと、誰も聞いてくれない。それは論理には感情が無いと感じられ、「有難いと」思われないからだと思う。だからレンマの最後のテーマは「イメージと生命の論理」にしようと思っていたけど、これは私の理解を超えているのでやめよう。 …

弁証法とレンマの論理

形式論理でいうと、否定の否定は元に戻る。(¬¬A=A)でも、前とは異なったモノになるというのが弁証法の論理。(¬¬A ≠ A)実はこちらの方が身の回りをみると自然なのである。 例をあげてみよう。以前からどう表現したら良いのかわからなかったことがあ…

レンマの論理とオイラー図

レンマの論理は次の4つから成り立っている。その意味を考えてみた。 テトラレンマ(龍樹の中論を定式化したもの)(1) A (肯定)(2) ¬A¬A¬(否定)(3) Aでもなく¬Aでもない (肯定でもなく否定でもない)(4) Aでもあり¬Aでもある (肯定でもあり否定でも…

弁証法とは何か

いろいろ調べてみると、弁証法には二つの方向がある。1つは論理としての弁証法。正→反→合。これは意味がわからない。が、いろいろ応用が効く。つまり、自分の思っているコトに当てはめることができる。 2つ目は発想法としての弁証法。これは仮説設定法とし…

波の実体?

このブログがHTMLで書けることを知った。 とすると、これはどう表現されるのか。 ちゃんと表現されているのが嬉しい。 左から右へ波が伝わっているように見える。よく見ると、それぞれの位置(点)が上下しているだけ。一体何が伝わっているのだろうか。 波…

<あいだ>を開く

「あれ」と「これ」のあいだには何があるのか。 レンマの論理では二元論をどう乗り超えるかというと、「あれ」と「これ」の<あいだ>を探り、この二つをつなげることで乗り超えようとする。私はこの<あいだ>をずっと探してきたと思う。 例えば、数学の命…

形は無から生まれる(アナロギアの論理)

以前作ったタブレットかけ。 とても役立っている。このしくみはというと、 既製品ではない。二つのモノを組み合わせたもの。 これはタイヤにチェーンを取り付ける時の道具。もうチェーンを取り付けることが無くなったので、捨てようと思って、いろいろ動かし…

レンマの論理 その2

以前考えたことを最初に紹介。 90、差別と多様性と同一化・・・違うものの中に同一性を見つける なぜ差別をするのか (2007.11) これは、同値律の別の形だと思う。差異の中の「同じ」を見つけるのだけど、形式論理から言ったら少し違和感を感じる…

純粋経験とレンマの論理

100分de名著ではちょうど「純粋経験」をやっていた。 西田の「善の研究」が分かりにくいのは、直観を言葉=論理で表そうとしているからだ。そもそも言葉にならない前の経験を言葉にしようとするのは困難である。 でも、私たちはその言葉にならない「純…

〈あいだ〉を開く  レンマの地平 木岡伸夫著

表題の本を読み始めた。面白い。 例によって、書きながら読んでいる。 前書きより 「ロゴス的」とはモノとモノとをはっきり区別し、分けてゆく態度のこと。「レンマ的」とは分断できない物事の〈あいだ〉を認めるものの見方、考え方。例えば「おかげさま」と…

「純粋経験」

岐生研の会議で瑞穂市へ行ってきた。 いつも楽しい。 特に、会議ではない合間に話す会話と対話が面白いのだ。 今回は、足立先生の「西田幾多郎が教育に与えた影響」が最初の論文だという話から、西田幾多郎の「善の研究」の話になった。 以前から「純粋経験…

遠い夜明け

グーグルを見たら 検索結果 スティーヴ・ビコ - Wikipedia の生誕70周年が出ていた。 最初になぜ70周年なのかと感じた。 彼は30歳で殺されているのだ。 思い出した。 遠い夜明け - Wikipedia この映画があった。 彼の行動からは、あきらめない精神を感…

「神秘的な合理主義」批判

人は不思議なことに遭遇したときに、神秘主義に走る。 説明できないことを神秘なことや崇高もののはたらきに棚上げするのである。 そういう態度を神秘主義という。 さらに、一見合理主義や科学的な態度をとりながら、まだわからないところを神秘主義でごまか…

「合理的な神秘主義」

安冨さんの講座のビデオを見ている。 http://iwj.co.jp/wj/open/archives/39444 「森嶋通夫の人間観に学ぶ」 ここで、印象的だったのが、「合理的な神秘主義」。 親鸞さんの言葉でいうと、「無上仏は言葉も形も絶えたり」。 ものごとの起こるところは不可思…

Iとmeとmine

ウイリアム・ジェームスの説 私(self)という意識主体が経験する様子を分析すると、 me と I に別れる。 meは何かを考えたり行ったりするとき、心的な経験をしている《私》。 Iはその私をさらに自覚している〈私〉。 自分を見ている私をIというのが面白い。…