退院

予定は明日だったけど、主治医から今日退院できますということで、うれしくなった。

順調に回復してきたけど、まだ出血がある。
でも、これ以上の治療は本人の体がするということで退院。

この8日間、いつもながら看護師さんの大変さを感じた。
特に新型コロナの対策がさらに追い打ちをかけている。

それにしても病院はとても勉強がでるところだ。

手術前と後の3日間は図形を何枚も描いてばかりいたけど何も進展はなかった。
それ以後は朝から夜まで本がたくさん読めた。
なぜか理解がよくできた。
同室の人ともコロナのせいであまり話ができないので、することはTVを見るか本を読むくらい。
持って行った本はすべて読んでしまった。
新たに読んだ本については感想を書こうと思っている。

そういえば手術の結果だけど、症状は劇的によくなっている。
ありがたいことである。

これでトイレのストレスが随分軽減された。
おむつは外せないけどありがたいことである。

 
病院の帰りに孫の所へ寄って昼食としばらく遊んだ。
散歩をしていたら野イチゴのある所に連れて行ってくれて、マンマと言う。
一週間見ないと変わってしまっている。
家に帰ったらメールがたくさんたまっていた。
迷惑メールはもっとたくさん100通ほど。

 

今日入院、明日手術

今日入院。明日手術。

ずいぶん長いこと待った。

そもそもおかしくなったのが前回の手術の後だからもう10年になる。

これでトイレで苦しんできたことが解決されればありがたい。

でも、新たな問題が出てくるかもしれない。

10日間何もなければいいのだけど・・・。

準備完了か

いよいよ明日から入院。

パソコンを持っていけないので10日間ほどブログは書けなくなる。

今日はまだ沢山生っている柿をとった。

そしたら、近所の方がニラを植えるように持って来てくださったので、ニラも植えた。

大根が順調に育っていると褒められた。

これで大体入院の準備は完了。

読む本も準備した。

全身麻酔なので大きな手術だ。

明日は孫の会ってから病院に行こうと思っている。

学而

高橋源一郎さんの「一億三千万人のための『論語』教室」も借りていた。

以前、安富歩さんの学而も書いたことがある。どこだったか。

その学而編

学んで時に之を習う。亦た悦ばしからずや。

朋あり、遠方より来る、亦た楽しからずや。

人知らずして慍(いきど)おらず、亦た君子ならずや。

 この3つの文が関連している。
高橋さんは習を温習会としている。
温習会とはおさらい会のことで、孔子の学校で弟子たちが議論することをいう。
一人で学ぶのでは悦ばしくない、みんなで議論しながらワイワイやるのは悦ばしい。
だから朋が遠方よりやってくるのは楽しいのだ。
でも、人と会っていても、自分のことをどう思っているのか気になる。
その時に自分のことをわかってもらえなくても憤らないのがいいなあ。
とこんな感じ。

ここは学びの集団性を示している。
そもそも学びは集団的なものなのだ。
孔子の弟子たちの学習集団そのものが開かれた知を持っているのだ。
そして、何よりもみんなで学んでいると、はっと気が付くことがある。
ほかの人の意見を聞いていて、そうだったんだと感じた時、悦びがこみあげてくる。

有子曰く、礼をこれ用うるには、和を貴しと為す。先王の道も斯を美と為せり。小大に之に由らば行われざる所あればなり。和を知りて和するも、礼を以て之を節せざれば、亦行うべからざるなり。

礼はルールで、和はみんなで歩み寄ること。
和をもって貴しとなすには、礼(ルール)が切り離せないのだ。

高橋さんは20年間論語を読み続けてきたという。

入院前に済ませておかなければならないことで忙しい。

放物線の外接三角形の相反共役線は放物線の接線

朝4時ごろ目が覚めて2時間ほど計算をした。
それくらいしか脳が働かない。

やったことは《放物線の準線の垂線の外接三角形に対する相反共役線は放物線の接線となる》ことの証明。
といってもひたすら計算をしただけ。
計算による証明はどうもすっきりしない。

でも、計算しているうちに準線上の点と焦点との垂直二等分線が接線になるので、準線上の点のx座標だけで接線が表現できることに気が付いた。
計算を何度も間違えるので、そのたびに計算が間違っていないか作図で確かめた。
したがって二番目の図は計算の結果だ。

 いよいよ放物線の外接三角形の極線上の点の三角形極線は放物線の接線になることを証明できるのではないかと感じている。

このたびさとりをひらくべし

五十六億七千万 弥勒菩薩は年をへん

まことの信心うるひとは このたびさとりをひらくべし

 弥勒菩薩は等覚の位にありながらも、五十六億七千万の歳を経て成仏される筈である。真実の信心をうる人は、今度浄土へ生まれて涅槃のさとりを開くであろう。

(名畑応順校注 親鸞和讃集より)

これを最初に読んだとき、「このたび」だから今ここでと考えてしまった。
しかし、そんな狭い時間ではない。
「今回の生で」は生きている間ではなく、もっと広く「今回の生で浄土に生まれて」という意味だ。

それは、無始以来流転してきた私がさとりを開くことができるということを示している。それは実は大変な出来事なのだ。

 

三帖和讃を唄いながら何度も読んでいる。もう何回目だろうか。
その正像末和讃を読んでいて感じたこと。

屋根のペンキ塗りをやっと終えた。
これで冬を迎える準備の一つを終えたけど、まだたくさんあるなぁ。

「読む」って、どんなこと? 高橋源一郎著

病院の検査が5時間以上かかった。

その間に表題の本を読み終わった。

読み終わっただけでなく、何度も読み返した。

途中涙が出て次に説明があるので読めなくなって飛ばしたところがある。

もちろん説明の済んだ後、涙を流しながら読み直した。

短い文章の紹介なのにどうしてこんなに涙が出てくるのか不思議だった。

この本は高橋さんの大学での読みの授業の実践だと思う。

だから、押し付けや難しい理論ではなく簡単に読める。

そして、読みながら考えさせることに重点が置かれている。

しかもだんだんと私を追い詰めていくような読み方、いや書き方がなされている。

取り上げられているテキストも素敵だ。

読むと涙が自然にあふれてくる文も、読むのが辛くなる文も載せられている。

そして最後は私のキャッチボールの相手は誰なのかと投げかける。

読むことと書くことのキャッチボール。

 

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 関の中央通りのカエデの紅葉のグラディーションが素敵だった。