風邪で休まれた方、体調が良くなくて休まれた方がいたけど、新しい方が3名も参加されて、色々な話題に話が弾んだ。
今日のテーマは、昨日のけん玉教室の話から始まって、「生きる」という話になった。
昔、『生き物たちのエレガントな数学』のあとがきを書いて、知り合いの先生に読んでもらったら、こんなの屁みたいな文章だと言われて、書き直したものを最後に読んだ。
いつも涙が出てくる。
『 今まで、いろいろな生徒に出会ってきました。私の毎日を楽しくさせてくれたのは彼らとの対話でした。彼らの一言には、考えさせられ、時には私を新しい世界へと導いてくれました。
J君は漢字が読めませんでした。自分の町の駅の看板に書いてある字がわかりませんでした。T君は漢字は読めるけれど、文章の意味を読み取ることが極めて苦手でした。M君は弱視で字を読むことは困難だけれど、いつも問題の意味を説明してくれました。
ある時、三人で協力しながら数学の問題を一問、やっとのことで解きました。そして、しみじみと話しているのです。
J: T君はいいなぁ。問題が読めて。
T: M君は問題の意味がわかっていいなあ。
M: J君はいいなぁ。問題を解くことができて。
私は、この会話にどう参加したらいいのかわかりませんでした。そして、とっさに次のように話してしまいました。
私: 三人ともそれぞれすごいじゃないか。T君が問題を読む。M君がその問題の意味を説明してくれる。J君が問題を解いてくれる。三人のうち誰かが居なかったら、この問題は解けなかったんだよ。
これは数学の問題を解く時だけのことだけではないように思われます。そして本当の友情がここにはあるような気がします。
もう一つ話を聞いてください。Kちゃんは数学がきらいでした。歴史と相撲と新聞は大好きで、いつも古い新聞を読んでいました。彼はいのちをどう考えているのだろうかと思って尋ねてみました。
私: Kちゃん。質問してもいい?
K: 忙しいから簡単にしてください。(新聞を読んでいる)
私:「生きている」ということはどういうことだろう。例えば、 給食で食べるパンは生きているのかな?
K: 生きています。
私: どうして?
K: 死んでいたら食べられません。
私:じゃあ、給食にでるフライの魚は生きているの?
K: もちろん生きています。死んでいたら食べられません。
このように即座に答えるのです。少しも迷いはありませんでした。彼にとって「生きている」ということは、「いのちがある」ということなのでしょう。彼の話から「生命」と書く意味がわかりました。
この話を、数学の時間にあるクラスで紹介しました。一人の数学が苦手な女生徒が次のように書いてきました。(その前に彼女はみんなの前で堂々と語ったのですが)
「今日の『生きているとは』の話みたいに、みんなに勉強より大切なもの系の話をしてあげた方がいい。考えさせられるから。ちなみに、私なりの生きるとは、誰もわからないもので答えは一つじゃない。それを探す旅が人生。
知らない間に人は生まれて死んでいくけど、その中で自分なりの『生きる』を見つければ今までの生きてきたのは無駄じゃない。見つけられなくても山がきれいとか、宝くじに当たってうれしいとか、悲しいとか、ふとした瞬間に自分が感じた何かで、少し何か変わったら価値はあるはず。
生きるとは、この世の物質すべての“永遠”のテーマなわけで、たかが炭素のかたまりの私たちが決めていいのかと思ったりもするけど、炭素は空気中でまた次の物質になってまた生きるのなら、自分のかけらが少しでも残るのなら、生きるとは次に続くことを意味するのでは、と思った。」
炭素のかたまりである私たちが、生きるとは何かを考えるのですから、何と不思議なことなのでしょう。こういったことを考えている生徒たちがいるということも不思議です。生き物の不思議を考えると同時に、私たち自身の不思議も考えてみたいものです。
2007 年 9 月』
はるか昔の事ですが、そのことをありありと思い出すことができます。
彼らは哲学者なのです。