「貧」と「貪」

毎日カビとの戦い。

昔から「貪欲」とか「貪瞋痴」を書くときに、かどちらを書けばいいかわからなくなっていた。
そこで貧と貪はどう違うのか改めて調べてみると、

」は、分+貝、お金を表す貝の上に分けるがついている。
分けるはハ(わかれる)+刀で刀で二つに切り分ける意味。
貝(財)をふたつに切り分けるので貧しくなる。

」は今+貝、今=(合の口をとったもの)ふた+フ(印)

今は亠(ふた)をかぶせて今あるものを取り押さえること。
貝(財)にふたをかぶせてふさぐことから貪るとなった。

貧はわかれているし、貪はわかれていない。
分と今は似ているけど全く違う字なのだということがわかった。
「今」は印に蓋をかぶせることを示しているのだろうか。

地球の財(コモン)を切り分けると貧しくなる。
お金にふたをかぶせて貪っている。
これって貯蓄すること? 流通させれば貪りではないの?
これらの言葉の主語は?

「貧困」と「富」

夜、教え子から電話がかかってきた。
何となくうまくいっていないらしい。
そこで、自分が無知(何も知らない)で無力(何もできない)であるということを知っているという「無知の智の態度」のことを話した。
この態度によって、人を見る目、接し方が変わり世界が広がってくるという話を。
彼は「できるかどうかわからないけど新しい見方です」と言っていた。

私達は、人格をも評価されたらどうなるだろう?
持っている能力が全てだと思っている人はどうなるだろうか?
その能力を否定的に評価されたらどうなるのだろうか?

これは私達の存在意味(価値)につながってくる。
では、能力や人格とは変わらないものなのか。
当然変わる。
成長し発達するからだ。

この成長と発達こそが私たちの存在なのだと捉えると、異なった見え方ができる。
例えば、次のような貧困を考えると、(ひきこもりは貧困なのか?)

この状態に追い込んだものは何か?
孤独であり、意欲が出てこない状態に追い込んだものは何か?
それは、決して個人の能力や人格ではない。
だって、個人の能力や人格はこれからも発達するものだから。
だから、これは発達が疎外されたのだ。

 ところで、「貧困」の反対語は「富」である。
例えば私有財産があること。
では、そもそも私有財産とは何か。
(privateはフランス語では下図のような意味だという)
毛坊主と妙好人 その二  列島でも財産をあずかりものと受け取っている人がいた)

 このあくまでお金を増やそうとする貪欲が、今の世界を動かしている。
この「富」に対して「人間的富」を取り上げる。
それはずばり、「人間的富」とは人間発達=コミュニケーション的理性の発達

 すると「貧困」の意味も変わってくる。
マルクスは 「絶対的貧困とは売るべき商品として労働力しか持たない状態」と考えた。(労働力以外には何も持たない「財産からの自由」の状態に置かれた労働者の貧しさ)
労働力さえあれば生きていけるのに、なぜだろうか?
次の図は上が「動力」で下が「制御」。

 手を使うためには当然脳も使わなければならない。
だから、道具を使っている段階では、労働は構想と技術を伴い、職人に見るように人格も統合されていた。(ちなみに労働によってつくられるのはモノ(商品)だけではない。私たちのスキルや感覚などの認識能力や感性なども同時に創られる。)
手のスキル、頭脳の知恵や経験知や暗黙知に従ってモノを造っていた。

 ところが、次の機械の段階になると、生産手段は労働者にはない。
そして手のスキルを使わないで、マニュアルなどを使うようになる。
マニュアルということは誰でも出来る頭を使うということだ。
この段階になると労働者は機械の部品と変わらなくなる。
機械を動かす精神労働と全体労働を資本が握っているので、労働者は肉体労働や部分労働だけになり、いつでも交換可能になる。
主体性も統一性も多様性も専門性も必要なくなる(剥奪される)。
この状態が「絶対的貧困」(スキルや感性や経験知や暗黙知も奪われた状態)。

 そしてさらにコンピュータによる制御の時代に入ると、機械を制御するという最後に残された脳のはたらきをも奪われる。
この段階で心配なのは、これらを進めているのが強大な資本であること。
つまり資本の生産力をますます拡大する方向に進んでいること。

 この流れは、教育における「期待される人間像(労働者像)」の変化も示していることに気がつく。科学教育・技術教育もこの流れを補完していたことに気がつく。
つまり、資本主義はその必要から教育制度を生み出している。
絶えざる技術革新のもとで、それに適合的な労働能力、新技術に適応できる能力を教育に求めている。

 マルクスはこれを予想していたのだろう。
では、彼はその逆である「人間的な豊かさ」をどうとらえていたのだろうか。
ゆたかな人間は、同時に人間的な生命発現の総体を必要としている人間である。
すなわち、自分自身の実現ということを心の底から願う人である。

「理性」と煩悩

 台風は消えてしまったが、雨なので外へ出ずに、収納の棚を3時間かけて作った。

 これまで「コミュニケーション的理性」について語ってきたけど、
私は最初この言葉の「理性」に違和感を持っていた。
人間の理性が、素晴らしい発見や道具を作ってきたことは認めるとしても、
その「理性」が逆に私たちを苦しめるということを何度も見てきたからだ。
私はそれを煩悩と言っている。
そして、煩悩は「理性」からも出てくることを忘れてはいけない。

「人間的自然の理性化」 から 「数学の人間的自然化」へ (hamaguri.sakura.ne.jp)

 だから、この「コミュニケーション的理性」もすんなりとは受け入れることができなかった。でも、数学をやる意欲や興味や関心はどこから来ているのかを考えていたら、これらもすべて共同体の中で培われたものだと感じた。例えば、図形の定理の証明も、数学共同体(中学校から大学までの授業の中で)の中で培われたものだ。

 また、『アブダクション』の中に、パースが人間の理性を進化論的にとらえ、食べるということが科学の元であり、子育てが社会の元だと言っていた。これは「真理性基準のコミュニケーション的理性」と「規範性基準のコミュニケーション的理性」にぴったり当てはまり、さらに遊びも加えて三つに分けている所に合点した。
「自由」と「公平」の原点

 さて、私たちは自分には能力と人格があると思っている。
そして、あの人はできる人だとか、人格者だとかと評価している。
でも昔の人はそうは思っていなかった。
彼らには身分(能力と人格が未分化な状態)があるだけだった。
では、いつから能力と人格がわかれたのか。
それは資本主義の時代になってからだ。
つまり「労働力が商品化」されてきてからだ。
「私の労働能力は商品として売買できるが、人格までは売ってはいない」
とかを自覚するようになってからなのだ。
つまり、私は労働能力だけで評価されたいし、人格は私のものだと思いたい。

 そうすると、能力とは別に人格が誰にでもあるということがわかってくる。
子どもにも、女性にも、障がい者にも。
ここから人格の自由や独立性などが意識され、人権が明らかになってくる。

 ところが、個人の能力と人格はそもそも分けることのできない一体のものである。
実際に会社で働いている時は、人格もそこに縛り付けられている。
だから実際は能力だけでなく人格も売っているのだ。
すると、人格の商品化も起こってくる。
キャラクターとか人柄が売りとか。
(そう言えばタレントって才能ある人という意味だったよな)

 能力だけでなく人格まで売ってしまったら、奴隷と同じになってしまう。
これをどう克服したらいいのだろうか?

 それは自由時間を持つ事である。

 

「コミュニケーション的理性」とは

赤ちゃんの「指さし」への反応は、大人との二者関係から三者(三項)関係へと変化していることを示している。これが革命的なのは動物には声で第三項を示すことはあるけど、「指差し」ではないことによる。

だから、この指差しへの反応がコミュニケーションの始まりであり、そこから身振りや音声言語が生まれてくる。
では、このコミュニケーションは他の動物とどう異なっているのだろうか?
例えば食べ物を食べることで動物と人間は同じだけど、次の点で異なっている。

A、食べ物をとる(人間は自然とのコミュニケーションを育てた点が動物と違う)
 例えば果物を運ぶ→子どもに与える→一対一の対応→いくつ持っていったらいいのか
 →目的・予想・構想を持つ→ことば。
 狩猟→道具の生産→労働→学習・教示。
 これらによって、目的合理性・合法性をベースとした真理性基準のコミュニケーション的理性が発達する。
 例えば、ものづくりの協働・数学・科学など。一言で言えば「了解する能力」。

B、子育て(仲間とのコミュニケーションを育てた点が動物と違う)
 協力し合って子育てをする。
 子どもと共有する対象があることで意識の共有。
 指差し→身振り言語→音声言語→→性別分業→共同体→社会。
 協力性・他者理解・相互合意をベースとした規範性基準のコミュニケーション的理性が発達する。
 例えば、エッセンシャルワーク・教育・コミュニティづくり・遊びの中でのルールづくりなど。一言で言えば「合意する能力」

C、遊び(集団や仲間と遊ぶ点がサルと違う。スポーツや芸術なども)
 自由時間の創出によりあそびやスポーツや芸術が生まれる。
 喜び、楽しみの感情。遊びの楽しさ、面白さ、魅力・求心力など感性てきなもの。
 自己目的的活動として享受する能力として共感・誠実・真意性基準のコミュニケーション的理性が発達する。
 
例えば、鬼ごっこ・積み木遊び・カルタ・ごっこ遊び・音楽・美術・文学・ダンス・ゲーム・集団遊び・趣味などを自己目的的活動として、楽しみ面白がる能力。
 つまり「共感の能力」。

私たちの「人格の発達」はこれらのコミュニケーション的理性を培うことに尽きる。

 遊び”と”モデルベースシステム” - 文ちゃんのページ (hatenablog.com)

参考文献は「人間発達の福祉国家論」二宮厚美著。

「貧」と「貪」の文字の違いを調べたら面白かった。

回り道フォーマット その4

朝3時頃目が覚めて眠れなくなってしまった。
使われていない金属製の米びつを外に出した。

回り道フォーマットの矢印は「コミュニケーション」を指し示している。

私が何か働きかけると何が変わるのか?

モノに働きかけると・・・

なかまに働きかけると・・・

対話は相互了解であり合意である。一方的な伝達ではない。

コミュニケーションは大抵言葉によってなされるが、その始まりは赤ちゃんの指さし理解にあるという。
生後9か月ぐらいになると、赤ちゃんは大人から「指示された対象に注意を向ける」という革命的な能力を身につける。
そして、この「指さし」によって赤ちゃんと大人との間に目的・意図・教示・理解・共同が成立する。

この回り道も「指さし(指し示し)」の一つである。
はまぐりの数学 (hamaguri.sakura.ne.jp) 「指し示しの数学」

高鷲文化財保護協会 講演「石徹白騒動について」

会場:たかす町民センター研修室

講演内容:「石徹白騒動について」
郡上一揆と同じくして行われた石徹白地区の出来事

講演者:上村浩昌氏 (高鷲町大鷲)
主 催:高鷲文化財保護協会

 



図を用いて話や筋がとてもわかり易かった。
資料も石徹白騒動の経過が良くわかり、おかげで理解が進んだ。

石徹白には3つの大きな騒動があった。
①宝暦の石徹白騒動
②明治の神仏分離令の騒動
③昭和の町村合併の騒動

石徹白騒動で処刑された石徹白豊前のアドバイザーと言われる正ヶ洞村伊兵衛はうちの先祖である。昔、岸武雄先生の「いとしろへの道」を読んだときに、石徹白騒動(白川への追放)の黒幕になっていることに驚いたことを思い出す。(これは創作上のこと)でも、正ヶ洞井水を造った功労者である。
このことについて話をした。
歴史上の人物を善と悪で二分する(こうするとわかり易いしすっきりするけど)ようなとらえ方では本当の歴史は見えないと。

西脇さんのあいさつの中で『忘れられた日本人』の中に石徹白の古老のことが書かれていると紹介があった。そう言えばあったようなと思って調べてみると、「福井県大野郡石徹白の石徹白藤之助翁」と書いてあった。宮本さんは、学問もあり話好きの翁と紹介している。その人たちは、いつも広い世間と自分の村を対比して物を見ようとする。と同時に外から得た知識を村へ入れようとするとき深い責任感を持っている。それがもたらす効果の前に悪い影響について考える。・・・と書いている。