「自由」と「公平」の原点

ローティの100分deを読んでいたら気になることがあった。
それは、「私」と「公」の問題。
例えば米国では自由と公共が対立することがある。
小さな政府は自由を求める人たち、公共を大事にする人たちは政府の仕事は必然的に大きくなる。これは私と公の対立と言っていいだろう。

この対立はプラグマティズムを源流とする流れが生み出したものか、それとも人間の本性なのかという疑問が浮かんできた。

ローティは、「私的な利害や関心=自己の拡張」と、「公共的な社会正義の追求」は根本的に異なっているととらえている。
アブダクション』を読んでいると、パースが面白い進化論的な考察をしている。

それを図にしてみる。

真理を推測する心       社会を形成する心   この心の原点は?
   ⇩              ⇩
食物を摂取する本能       子育ての本能
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食物をつかむ働きは      互いに心を交え社会的な
機械的な諸原理        絆を形成する心理学的諸原理   の本能的応用
(物理や数学を追求)     (心理学や民俗学社会学の追求)

真理を推測する心       社会を形成する心   を発展させると
   ⇩              ⇩
自己の拡張(自己創造の要求) 公共を大切にする(人間の連帯の要求
   ⇅              ⇅
 自己実現(自由)       社会の共同性(公共)
   ⇅              ⇅
私的な利害や関心       公正・公共・共同・社会正義
(美意識や趣味)

人間の本性から説明している。この仮説はとても面白い。

「個(私)」と「公共」は交わらないのかというと
個人が発見したり創造したものを、みんなに見てもらいたい・知ってほしいという願いは確かにある。これが公共との結びつきとなっているのではないか。