「私」と「公」について

ローティの二回目を見た。
公私を混同してはいけない
なぜなら、公と私は交わらないことだから。

具体的には公的な場で私的な心情などを問題にしてはいけない。
あくまで公の場での話し合いによって一致することができるはず。
つまり「表現の自由」と「嫌な感じ」は公の場と私的な場と分けることで解決できるとローティは言う。(簡単ではないと思うけど)

そうすると、
例えば地球温暖化の問題はどう考えたらいいのだろうか。
「一人ひとりが自分の生活を正していかなければ解決しない」と「個人の問題」にしてしまうことは、私の問題に踏み込んでくることになる。
この問題は政治の問題であり政治という公の場で解決をしなければいけない問題なのだ。それを個人の問題とすり替えては欺瞞である。

しかし、「地球温暖化を何とかしなくては」という気持ちは個人から出てくる。
とすると、その個の気持ちを拡張していくことが求められる。
ローティ(朱さん)は、バザール(公)とクラブ(私)としてイメージしていたけど、この場合のクラブは「私」というよりは「共同の場」の様な感じがする。
私である個を拡張していくためのクラブ、つまり「私的なクラブ」を創り出すことが公共的な課題になる。

だから、このクラブは「私」ではなく「共」であるととらえた方がよい。
私・共・公と分けるのだ。
そしてそのクラブ自体も個が拡張するように拡張していく。
「私の趣味のクラブ」もあるが、「共同的なクラブ」もある。
では、そのクラブ自体が拡張していくためにはどうすれば良いのか。

今度は「拡張」が課題となる。

人間や社会は具体的な姿形をとったボキャブラリーである