「学び」の商品化・ゲーム化

このブログは日記である。
そしてこの日記は10年日記である。
時々、関連する昔書いたことを読んでいる。(この機能がこのブログの良い所)
すっかり忘れてしまっているが、なるほどなと感心することが多い。

また最近は「キューレーション」としても使っている。
一度に読んでも理解できないので、後から振り返ることができるようにしている。
また、「お気に入り」が膨大過ぎて分類できなくなっている。
関連するものとつなげた方が良いし、つながりが大事なのだと思う。
(ここから文体が変わる)

友人のブログを見ていたら、

「学び」が《空洞化▪商品化▪ゲ―ム化》しているなれの果てが「傍観者としての学び」になっている

と書いてありました。
商品化やゲーム化はとてもよくわかります。
そもそも「学び」と「遊び」は同じ領域なのですから。
そして、現代の遊びはゲームです。(遊びは身体と切り離せないのに)
また知識を広げるには、現在では「商品化」するのが手っ取り早い。

でも、「学びの空洞化」は自分自身を見ていても感じます。
とすると、そうではない「学び」にどうしていくのか
そもそもそうでない「学び」って何だろうか
ということを考えなくてはなりません。
友人は「当事者になるコト」「当事者性のある学び」が大事だと言っています。
当事者であるのにそう感じていないことが問題なのかもしれません。
つまり単なる知識だけでは「学び」になっていないということです。

私はこの「当事者になるコト」は、偶然性が大きく作用しているのではないかと思っています。たまたまの出会いが大きな影響を与えるということです。
それを「値遇」と言ってきましたが、この「出会い」の中にそれは大事なことだととらえる感性(ピンとくる)が必要だとも考えています。