「民主主義」と「ケアの論理」

今回の「わくわく図書館」では単に本を紹介するというのではなく、テーマについて問いを出してその問いに答えるという「座談会形式」で行いました。
著者の宇野さんが、前書きで出しておられる「3つの問い」が面白いので。
その問いとは

民主主義について、次のどちらが正しいでしょうか?

A1「民主主義とは多数決だ。より多くの人々が賛成したのだから、反対した人も従ってもらう必要がある」

A2「民主主義の下、すべての人間は平等だ。多数派によって抑圧されないように、少数者の意見を尊重しなければならない


B1「民主主義国家とは、公正な選挙が行われている国を意味する。選挙を通じて国民の代表を選ぶのが民主主義だ

B2「民主守義とは、自分たちの社会の課題を自分たち自身で解決していくことだ。選挙だけが民主主義ではない


C1「民主主義とは国の制度のことだ。国民が主権者であり、その国民の意思を政治に適切に反映させる具体的な仕組みが民主主義だ」

C2「民主主義とは理念だ。平等な人々がともに生きていく社会をつくっていくための、終わることのない過程が民主主義だ」

これらの問いはそもそも対立するようで実はどちらも大事なコト。
どちらも正しく、どちらにも問題がある。
でも、そこに民主主義を考える大事なポイントがある。

例えば、選挙で選ばれ多数を取ったら何をしてもよいというのはおかしい。

いろいろな具体的な体験が語られ、そこから自分の持っていた古い民主主義の概念が壊され、新たな民主主義のかたちが見えてくる時間でした。

ここから民主主義とケアの関係を、人類学者の松嶋健さんの「問い」で考えました。
問い
『一部の経営者や事業家への莫大な富の集中が加速されている。それは、彼らの主体的で自由な選択こそが、売れる商品やサービスを生み出したのであり、その成果をもたらした彼らへの富の配分は当然ということからきている。
[これを「選択の論理」という。個人の自由な選択⇒結果を本人の能力と努力(だけ)に帰属する(自己責任論)]

これにどう反論したらいいのだろうか?』

 反論の一例
  現実の生産活動は人々の労働活動だけではなく、様々なモノに支えられている。
  例えば、
 ---------------------- 公共財(コモン)----------------------
 社会的インフラ 天然資源  多様な資源 環境 人 などに支えられている
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  こういう公共財の働きがあってこその成果である。
  だから、経営者らの貢献は氷山の一角に過ぎない。
  そして⇒ 個人の自由な選択だけに行為主体性を認める「選択の論理」が、
     コモンの私有化を許し環境破壊を生んでいる
  共同的・協働的な作業があってこそだということを忘れてはいけない。

「民主主義はトレーニングだ」という宇野さんの意見に賛成しています。
私たちは民主主義のトレーニングを、つまり 
〔 コモン ⇄ アソシエーション 〕 をつくるトレーニングをしているんだと。

このトレーニングの場では、上の「選択の論理」に対して「ケアの論理」が対比されます。この「ケアの論理」が、当事者として、一人ひとりの尊厳を守るものとして必要なのです。

 【ケアの論理】(新聞の記事をそのまま載せる)
ケアの論理では「その人が何を欲するか」ではなく「何を必要とするか」が出発点となる。悩み苦しむ人の身体に寄り添い、より心地よい方向へと関係性や環境を整えるのが主眼となる。ケアとは「ケアする人」「される人」だけではなく、家族、関係者、薬、食べ物、道具、場所、環境などのすべてからなる共同的で協働的な作業とされる。

このケアの論理では、ケアに関わる全てに注意を向けるため、人間が様々なモノや生きものとともにある生きた世界の一部であることを見出すことにつながる。

つまり、人間だけを行為主体と見る世界像ではなく、関係するあらゆるものに行為の力能を見出す世界像につながっている。
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この最後の部分を仏教では「縁起」という。
松嶋さんは、タイで起きたHIVの患者が排除されて生きるために「ケアのコミュニティ」を作った例と、イタリアで精神障碍者を隔離していた精神病院を全廃して地域で暮らすサポート体制を構築したという例を挙げていました。

念のために
・「公開による透明性」(古代ギリシアの「政治」の原理)
・「参加を通じての当事者意識」(「参加と責任のシステム」)
・「判断に伴う責任」(「参加と責任のシステム」)