「人間の精神」と「自然の真理」

パースは「人間の精神」と「自然の真理」の親近性についても述べている。

人間の精神」と「自然の真理」には不断の相互作用がある
「人間の精神」は「自然の諸法則」に適応していく
「人間の精神」は「自然の諸法則」によって形成され発展してたきたもの
だからこそ、
「人間の精神」には「自然の諸法則」について正しく推測する本能的洞察力がある。
「アブダクティブな示唆」は「人間の精神」の自然な働きであり、精神が自然の性向と一致し自然を理解するのによく適しているという証拠

でも、この「アブダクティブな示唆」はよく間違える。
(実際に、証明で試行錯誤をしている時は間違いの連続である)
さらにこの説を知ると「人間原理」や「インテリジェントデザイン」が思い浮かぶ。
これなども
「宇宙のことを理解しようとする人間の精神がなぜ生まれたのか?」という問いをアブダクションで逆に考えてしまったのだと思う。
パースは個人が間違えた時こそ、共同の検討が必要だと言っているのだろう。
そしてそこに限りない信頼を置いているのだろう。

だからもう一つ、「全体」と「個」の間の問題が浮かび上がってくる。
例えば
「子どもはことばによって世界や自分の気持ちを表現しているけど、
ことばの世界と外界の世界と自分の世界を分けて認識していないように感じる。
ということは、ことばの世界に簡単に影響を受けるということだ。
だから環境やゲームやAIにも影響を受けて流されてしまう。
それを自我が確立されていないからと言っていいのだろうか?」

人類としてはよくわかっているけど、個人にはわかっていないことがあるのだ。
これが学習の課題だと思うが、それは一方的な啓蒙ではだめだ。
一人ひとりの個の中に類が存在していることを忘れてはならない。

私はこの問題は、パースが言う「科学者たちの共同社会における一致をめざしてのみ、究極的真理を探究することができるのである」を「子どもたちの共同社会における一致をめざしてのみ、真理を探究することができる」と置き換えることができる思うのである。そしてこれがデカルトの「我思う故に我あり」とは決定的に違っている点である。