弁証法とレンマの論理

 

形式論理でいうと、否定の否定は元に戻る。(¬¬A=A)
でも、前とは異なったモノになるというのが弁証法の論理。(¬¬A ≠ A)
実はこちらの方が身の回りをみると自然なのである。

例をあげてみよう。
以前からどう表現したら良いのかわからなかったことがある。
それは「凡夫の自覚」。
この「凡夫の自覚」に否定の否定を当てはめてみると、弁証法もレンマの論理もとてもよくわかる。

凡夫である私は当然ながら自分は凡夫ではないと思っている。
ところが、その私が凡夫ではないもの(仏)と出会うことによって、自分は凡夫であったとわかってくる。そもそも、「凡夫」は「凡夫ではないもの」によって成り立っている。凡夫は独立に存在しているのではない。(Aは¬Aと切り離せない。Aは¬Aによって成り立っている)

ここで初めて「凡夫であった」と自覚する。
同じ凡夫なのだけど、以前とは全く異なっている凡夫である。

     参考 浄土論 ( 浄土はこの世にあるのか、あの世にあるのか)

このことを図にすると

     (自覚のない)凡夫 ←→ 凡夫ではない
弁証法の論理]       ↓
           凡夫ではないの否定
             凡夫であった  (でも元の凡夫とは異なる)
               ↓
         仏の光(大慈大悲)が当たっている凡夫(摂取の中にある)
レンマの論理]       ↓
          凡夫であり、凡夫ではない
          

 レンマの論理には第3の「句」がある。それは『「凡夫である」のではなく、「凡夫でない」のでもない』という句だ。これは弁証法にはないが、弁証法の論理をより詳しく説明している。
 つまり、「本当の凡夫でないもの」とは何かを考えさせ、それは仏であると思い至り、その仏の慈悲の光に照らされている凡夫の私が見えてくる。だから「凡夫であり、凡夫ではない」のである。

 どうだろうか、このようにレンマの論理は「凡夫の自覚の論理」をとてもよく表現しているのではないだろうか。そして、弁証法とレンマの論理の違いもわかってくる。