私の中の私たち

この頃、昔読んだ本を取り出して読んでいる。
どんなことが書かれていたのか忘れているからだけど、それを再び取り出すのは気にかかることが浮かんでくるからだ。

今も新刊を何冊かを同時に読み進めているけど、それらがどう融合するのかが楽しみ。
そして、昔読んだ本がどういう位置づけにあるのかを確かめることは自分自身の経暦の振り返りになる。

A、記号接地問題から「ヘレン・ケラー体験」…基本的な体験
B、我々の持っているアブダクション推論…対称性推論ができることの功罪
C、認識におけるプロジェクションの働き…入力するだけではない
D、仲間のはたらき…私の中の私たち

いろいろ彷徨っていたらこの最後のDへ行きついた。
私たちの認識は様々な人たちの影響を受けている。
これを場所の働きととらえても良いし、社会の働きととらえても良いし、
コトバ(記号)の働きととらえることも可能である。
ただ、私の興味関心は私が「わかる」ということなので、「仲間のはたらき」に絞る。

この「仲間」が何であるのかは曖昧にしておく。
だっていろいろな場所でいろいろな仲間がいるから。
そして、本を読むことは今ここにいない仲間とも語り合うことになっている。

今再読しているのは乾孝氏の「私の中の私たち…認識と行動の弁証法」という1970年代に書かれた本。
50年以上前の本だけど、40年前に買って読んだときに、「回り道」を思いついた。
覚えているのはこの部分だけしかなかったけど、何だか気になって本箱から引っ張り出したのだ。
この中にこういうことが書いていある。

「あなたは、ものを言わなければならないような必要を持つ前に、ことばを教わってしまった。」(伝えたいものがあるからことばを作ったのではない)
「(赤ん坊である)私は予想が立たないけれども、私の身のまわりのおとなたちは、絶えず私をとりまいている現状から一瞬さきを予言しながら私を育ててくれた。」
「生まれ落ちたばかりの人間というのは、チンパンジーよりはハツカネズミに似ている」(赤ん坊は何もできない偉大なる可能性の前にたじろいでいる能なし)
「われわれは、自分が予測する能力を持たないうちに、すでに現状を乗り越えたかたちで自分を統制するくせがついている。そこへことばがやってくる。」
「・・・いつのまにやら対話のできる動物になってしまう。・・・頭の中にもおふくろの頭と同じ言語信号のシステムをたたきこまれたときに、私の脳みそははじめて人間の脳みその名に値する働きを始める。」
「だから、人間の大脳というのは、一つだけでは何の意味も持たない。仲間とつながってはじめて意味を持つという不思議な生理を持っている。」
「そのものを認識することは…そこにいない仲間に伝えることのできるかたちに整理していくこと。だから、時間点を異にした自分に語りかけることにもなっている。そういうふうにして、公共のものに整理することが、まさに人間的な認識なんじゃないか。」

例えば数学の言葉を使うということは公共のものに整理することであり、
そのように整理して表現することがわかるということ。

「自分自身の認識として深めることは、私自身の中にいる仲間たちと分け合うことのできるかたちにすること。つまり、個性化していくということは、実は一般性をそこで勝ち取ること。」
「与えられた客観的な事実(現実)を大切にし、それに対するいくつかの意見を最後まで相談していく。自分の主観に対立してどうすることもできないその事実を大切にし、その事実から目をそらさないこと」

何だか当たり前で古くないような気がするし、無自覚にこのことをやってきたような気がする。