深い河 遠藤周作

やっと正月用の内敷を片付けた。
四人目の中島岳志さんの紹介した「深い河」は図書館で借りて読んで今読了。

「神はどこにいるのか」という問いは「私とは何か」に通じる。
そして神が主語となり、神が私を捨てないのだと転換する。

中島さんが番組で紹介したヒンディ語の与格構文については既に書いてある。
「エモい」って他力? ( 左右、前後、与格構文の話・PDFファイル)
ことばや愛はどこからやってくるのか?

神ははたらきである。存在ではない。私に働いてくれた。
インドで死体を運んでいる大津は、イエスも同じことをするだろうと言っている。
エスの死によって弟子たちの中にイエスは転生した。
そして、私の中にも転生していると大津は語る。

この小説は遠藤の自伝のようだ。
それぞれの登場人物に自分自身の体験を重ねている。

ヨーロッパのカソリックの自己中心的な一元論への批判を含みながら、多元主義的一元論を提起している。だから日本人がどのようにキリスト教を信仰できるようになるのかの遠藤の葛藤の表現だと感じる。
多元主義的一元論について文中にガンジーのことばが引用されている。
私はヒンズー教徒として本能的にすべての宗教が多かれ少なかれ真実であると思う。全ての宗教は同じ神から発している。しかしどの宗教も不完全である。なぜならそれらは不完全な人間によって我々に伝えられたからだ。様々な宗教があるが、それらはみな同一の地点に集まり通ずる様々な道である。同じ目的地に到達する限り、我々がそれぞれ異なった道をたどろうともかまわないではないか

ガンジス川とそこで死にたいとやってくる人たち。
それぞれの辛さを背負ってこの川で祈っている。
ガンジス川は善人も悪人も受け入れ、平等に包み込んでいく。
深い河はそれぞれの人にとってのガンジス川なのだ。

マザー・テレサテレサの元で働きたいと申し出た人にこう語ったという。
自分の国の最もすぐそばの人を大切にしなさい。愛はそこから始まる」と
そして作中では「何のためにしているのか」と死にゆく人を世話する尼さんに問うと
それしか・・・この世界では信じられるものがありませんもの。わたしたちは
と答える。