如から来たもの=如来=仏陀

3時ごろトイレにいって、うなっていたら眠られなくなり、これを書いている。

如とは何か。

一如とか真如とかいう。

真如が二つあるのは矛盾しているから一如という。

では一如とは何か。

譬えて言うと、私の右手と左手のようなもの。
以前からこの一如の譬えに迷っていた。とりあえず右手と左手と私にする。

右手と左手は別のものだけど、左手がけがをすれば、右手はそれを何とかしようとする。だって同じ私の体の一部だから。そして、身体には治癒する働きがある。

このように、衆生は右手と左手のようなもので如の体の一部。どちらかが傷つけば如の体の一部として、何とかしようとする。また自然に直そうとする治癒力がある。

これが一如のイメージで、一如には衆生を助け、癒し、治癒しようとする働きがある。

そして、一如はそういう働きがあることを私たちに知らしめようとする。

また、そういう一如のはたらきがなければ私たちには本当の救いはない。本当のさとりはない。

つまり、私たちが救われ、癒され、さとれるのは一如があるからだ。

この一如から来た人を仏という。

私たちは、こうやって一如をイメージすることはできるけど、全ての人を自分自身の体の一部のように思って、即座に助けようとすることはできない。自他を区別するからだ。一如には自他の区別はない。

さとるということは、そうイメージされた一如になること。

ここに、さとり(覚)ではなく、あかし(証)である理由がある。

宝海と申すは、よろづの衆生をきらはず、さはりなくへだてず、みちびき
たまふを、大海の水のへだてなきにたとへたまへるなり。
この一如宝海よりかたちをあらはして、法蔵菩薩となのりたまひて、無碍のちかひをおこしたまふをたねとして、阿弥陀仏となりたまふがゆゑに、報身如来と申すなり。これを尽十方無碍光仏となづけたてまつれるなり。この如来を南無不可思議光仏とも申すなり。この如来を方便法身とは申すなり。
方便と申すは、かたちをあらはし、御なをしめして、衆生にしらしめたまふを申すなり。すなはち阿弥陀仏なり。
この如来は光明なり、光明は智慧なり、智慧はひかりのかたちなり、智慧またかたちなければ不可思議光仏と申すなり。この如来、十方微塵世界にみちみちたまへるがゆゑに、無辺光仏と申す。しかれば、世親菩薩(天親)は尽十方無碍光如来となづけたてまつりたまへり。