サロンと理事会と華厳経

昨日は中西のサロン、夜は縁の理事会があった。

この頃サロンをやるのが楽しい。
皆さんが前向きで、一生懸命に取り組まれるからだ。
終わってから「来年も希望を出します」とうれしい言葉。
と同時に、体操の詳しい説明やら、体操ばかりはみんな嫌がるということも言われた。前にも書いたけど、やはりしっかりしたリーダーがいて、その方の呼びかけで大勢の方たちが集まっている。しかも60を越えると、自分から会費を払いに来られるという。私も代わりたいけど、誰も引きついでくれないので仕方がなく続けていると言われた。

 

根井先生の論文を読んで、華厳経真宗の関連が少しわかってきた。
私が華厳をやることはムリだと思っていたけど、こうやって研究されてまとめられてくださるととてもありがたい。華厳の毘盧遮那仏と蓮華蔵世界の構造をとてもわかりやすくまとめてある。一時は「華厳五教章」というもらった漢文を読もうと思ったけど、大体の内容はつかめたと思う。次の普賢菩薩のことはとても面白い。

 

 衆生に対する如来の働きかけを媒介する仲保者

 プロティノスの場合、感覚界に下降して肉体に宿った霊魂は、自己本来のあり方を忘却して、肉体的欲望にふりまわされる、とされていた。こうして、人間が生成変化する物体を追い求める我執、我所執が原因となって、さまざまな苦しみが生じる。それは人間が、自己が一者に由来するものであることを忘れ、自立的であろうとすることによって生じた事態である。

  それは、華厳においては、自己が如来の子であること、すなわち如来に由来するものであることを忘却し、生死流転の世界で生老病死などに苦しんでいる衆生の姿にほかならない。『華厳経』性起品はそのことについて、次のように述べている。「また次に仏子よ、如来智慧は処として至らぬと云うことはない。なぜなら、衆生ひとりとして、如来の知恵を具足して居ないものはないから。ただ衆生は顚倒のゆえに如来智慧を自覚せざるのみ。もし顚倒をはなれるならば、すなわち一切智・無師の智・無礙の智をおこすだろう」。

 如来の知恵とは、一切の衆生に及んでいると同時に、一切の衆生の存在の根源として、それ自身にとどまっている如来の働きのことである。一切の衆生は、生死流転の世界を超脱して自己を在らしめている根源としての如来と合一し、本来的自己を実現する可能性を有している。生死を解脱し如来と合一した涅槃の境地こそ、一切の衆生の本然のあり方なのである。にもかかわらず、衆生は、自己が如来によって在らしめられて在る存在であることを忘れて自立的であろうとする顚倒のために、自己の本然的なあり方を自覚することができない。こうして衆生は、生死流転し、苦しみつづけることになる。

 そのような衆生に対して、如来が働きかけて本来的自己を実現させるのである。すなわち「自分はよろしく彼等衆生におしえて聖道をさとらしめ、とこしなえにあらゆる妄想顚倒の垢縛をはなれしめ、如来智慧のまどかにその身のうちに在って、ほとけと相違しないことを自覚せしめよう」(『華厳経』性起品)とするのである。このような如来衆生への働きかけを媒介するものが、蓮華蔵世界における普賢菩薩である。普賢菩薩は、ヴィルシャナ仏の表徴、すなわちヴィルシャナ仏が蓮華蔵世界に示現したしるしである。それは、ヴィルシャナ仏がダンマの人格化であるのに対して、蓮華蔵世界として顕現したかぎりでのダンマの人格化ということができる。このような存在として普賢菩薩は、プロティノスにおける一者の模像であり叡知界の中心である全体的叡知に対応させることもできよう。

 蓮華蔵世界にある普賢菩薩は、向上的にヴィルシャナ仏と合一して悟りの境地に至る(自利)。しかし、普賢菩薩は、そこにとどまることなく向下的に衆生に働きかけ、その顚倒を打破することによって、ヴィルシャナ仏へと導き悟りの境地に入らせる(利他)。このように自利と利他の働きが相即したものが、大乗菩薩行としての普賢行である。普賢菩薩とは、このようなかたちでヴィルシャナ仏と衆生を媒介する活動態(仲保者)である

 全体の構造は昨日書いたようなもので、この「活動体(仲保者)」は無上仏へ導くための「れう」としての阿弥陀仏に該当する。今まで「普賢の徳」という言葉の意味がわからなかった。やっとわかった。そうだったのかと思うと同時に嬉しさが湧いてくる。