今日は午前中訪問介護、午後から修理の車の受け取りで十数万かかってしまった。
さらにプチ法話会。その合間に畑仕事と炊事。
前に紹介した三浦真証師の「PP法話」を取り上げて紹介した。
三浦師は法話では「自分がわからない所を取り上げてPPでわかりやすいように話す」と言われる。まったく共感。この点は数学でも同じだと感じる。
正信偈の釈迦章に
「弥陀仏本願念仏 邪見驕慢悪衆生 信楽受持甚以難 難中至難無過斯」とある。
「弥陀仏の本願念仏は、邪見・驕慢の悪衆生、信楽受持することははなはだもって難し。難のなかの難これに過ぎたるはなし。」
「阿弥陀仏の本願念仏の法は、よこしまな考えを持ち、おごり高ぶる( の)ものが、信じることは実に難しい。難の中の難であり、これ以上に難しいことはない。」
邪見・驕慢の悪衆生とは私のことである。
実はこの句の前に釈尊は次のように述べられる。
「一切善悪の凡夫人、如来の弘誓願を聞信すれば、仏、広大勝解の人とのたまへり。この人を分陀利華(白蓮華=妙好人)と名づく。」
これを図にすると
邪見・驕慢悪衆生 ⇒ 広大勝解者・妙好人・ありがたい人
↓ ↓
(信を獲る前の私) → (聞信) → (信を獲た私)
(一)弥陀仏の救いの目当てはどちらの人か?
当然前者である。「こやつこそ救わねば」と五劫もの間悩まれたのである。
ところがそういうものが信楽を受持することは不可能と言っておられる。
これはおかしいと感じてしまう。(なぜおかしいと感じるのだろうか?)
そういうものこそ救いの目当てなのに、そういうものが救われるのは不可能だと言われているから。
(二)さあ、邪見驕慢の私はどうしたらいいのだろうか?
A、厳しい修行や体験をしてありがたい人に少しでも近づく
B、聞いて学んで理解してありがたい人に少しでも近づく
C、そのまま仏の声を聞く
D、あきらめる
もう一度、仏様は「ええ人」を救うのだろうか?