信楽俊麿師と「報恩念仏」

ゼミの集まりが岐阜市であり、1年ぶりに恩師と奥さまとゼミ仲間と語りあった。
今までは、自分のことばかりしゃべっていたが、今回は、いろいろな人の話を聞くことが楽しかった。
 
話を聞くと、なるほどそうだったのかと思う。
今までつながらなかったことがつながってくる。
 
 
先週、信楽俊麿師のご逝去を知った。
信楽師とはお会いしたことはなかったが、信心や阿弥陀仏についての深い考察はとても参考になった。
その中で、「報恩念仏」について、信前の念仏もあるのではないかというご意見に接し、
大いに勇気をいただいた覚えがある。
そのことについて、いろいろな批判があることも知った。
 
親鸞さんのお手紙に、信前であろうが信後であろうが念仏を勧めるお言葉がある。
 
『往を不におぼしめさんひとは、
 まづわが身の往をおぼしめして、 念仏候ふべし。
わが身の往生一定とおぼしめさんひとは、
 仏の御をおぼしめさんに、 報恩のために、 念仏こころにいれて申して、
 世のなか安穏なれ、 仏法ひろまれとおぼしめすべしとぞ、 おぼえ候ふ。』

 

 
七里恒順師の法話の中に、求法と安心と報謝と処世があったが、
念仏はこのすべての段階で称えられる。
その意味では、報恩念仏だけではないが、
与之助さんは報恩念仏を行として、決して怠けてはならないものとして位置付けた。
報恩念仏をなかなか納得できなかったが、
七里師や与之助さんの教えから、
私たちができうる報謝行としての念仏もまた尊いものであると感じる。
 
 
私を導いてくださる善知識の方々は、仏からの方便である。
 
 
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