「阿弥陀仏が五劫もの間思いをめぐらしてたてられた本願をよくよく考えてみると、
それはただ、この親鸞一人をお救いくださるためであった。
思えば、このわたしはそれほどに重い罪を背負う身であったのに、
救おうと思い立ってくださった阿弥陀仏の本願の、何ともったいないことであろうか」
と、しみじみとお話になっておられました。
でも、他者も同じように仏との関係で存在しています。
そして、方便論とは、
「阿弥陀仏の本願が真実であるなら、それを説き示してくださった釈尊の教えがいつわりであるはずはありません。釈尊の教えが真実であるなら、その本願念仏のこころをあらわされた善導大師の解釈にいつわりのあるはずがありません。善導大師の解釈が真実であるなら、それによって念仏往生の道を明らかにしてくださった法然上人のお言葉がどうして嘘いつわりでありましょうか。法然上人のお言葉が真実であるなら、この親鸞が申すこともまた無意味なことではないといえるのではないでしょうか。」
で述べられるように、他者は私への阿弥陀仏の方便として現われてきます。
ですから、私も他者にとっての方便なのです。
この「方便論的個人主義」の素晴らしい所は、他者問題が現われないところだと、安冨さんは言われます。
特に、私たちがある現象をとらえる場合に、このとらえ方は有効であると。
ある事象をとらえた先人から学ぶということが、この方法をつかってできるからです。
現象そのものに迫ることは難しいけれど、そうやって他者の考え方を広げていくことができると。
方便
本願→教え→解釈→言葉