5月のプチ法話会「新しい領解文」から

5名の参加。

「新しい領解文」を読みながら、領解とは何かを皆さんと読み解く。
「新しい領解文」を教材にして自分の領解とは何か、仏の教えとは何かを読み解いていくきっかけにしたのだ。

『私の煩悩と仏のさとりは、本来一つゆえ 「そのまま救う」が弥陀のよびごえ』
これは私の方から考えると間違ってしまうと。

それにしても参加者の皆さんのご領解はこの「新しい領解文問題」でもびくともしないと改めて感じた。私は揺れているし、この問題が出てくる前と後では自分自身が変わっていると思う。

釈尊は「この世界は私がつくったもの(ことばが世界をつくる)。それが虚妄分別。だから自分にごまかされるな」と言われた。

「新しい」=「新しい時代に対応する」ということはどういうことだろうか。

それまでの仏教(摩訶止観の仏教など)と全く違う領域を切り開いてきた法然上人や親鸞さんの精神とは何か。

では、仏の世界と煩悩にまみれた私の世界はどう統合されるのだろう。

獲信後の生活はどうなるのだろうか。それを述べたのが領解文だったのでは。

釈尊は成仏し(覚りを開い)た後どう考えられたのか、どう行動されたのか。

Tさんのお父さん(善知識)が「煩悩があるで救いがあるんや」といつも言われていた。そして、彼は仏の教えを伝えるのに一生懸命やった。今思えばそれが仏のはたらきやったし、私らもそれができると教えてくださっていたと感じると言われる。


竹林の伸びたタケノコを何十本も切った。ついでに3mの竹を二本と野菜の支柱にする細い竹を十本ぐらい切り取ってきた。