昨夜のわくわく図書館はいろいろあって6名の参加。
とても刺激的だった。
本は「人間発達の福祉国家論」
第一章をめぐって話題になったことは
①労働時間のこと(絶対的貧困とは何か?)
これについては、p42の小見出し
「私有財産から自由時間への人格的自由の社会的基礎の転換」
の意味がつかみにくいということが議論になった。
で、次のように読み替えたらどうかということになった。
「貨幣を得ることから、(労働時間でない)自由時間を重視することへの転換」
このことを明確に私たちに自覚させたのが「工場法」
(1833年、1844年、1847年)
マルクスはその重要性を強調している。(p46)
では、この労働時間を守り自由時間を保証することを日本の労働組合はなぜ重視してこなかったのだろうか?
この説明がとても面白かった。
労働組合と労働者が自由時間よりも残業による賃金の上昇を望んだのだ。
②資本主義が人格と能力の違いを明確にし、自由時間や人権を私たちに自覚させた。
p64
人格と能力の分離⇨近代的個人の確立⇨民主主義。
この一章には疎外論は出てきていないのはなぜか?
③人格と能力をどう見るか
私たちは人格と能力を統一して生活している。
マルクスは
「人間的な本質は、現実においては、社会的な書関係の総和である」
と言っている。
私はこれを仏教の縁起としてイメージしている。
「私たちは縁によって起きている存在である」
いずれにしても「個人の確立」の問題と絡んで重要。
ここで具体的な問題で考えてみた。
学校が無限のサービス労働になってしまう理由は何だろうかと。
例えば、教育においては「子どもの労働力価値をあげる」ということが
成果と考えられており、労働の剰余価値論からはとらえられない。
だからきりがないサービス労働と化してしまう。
など。