台風は消えてしまったが、雨なので外へ出ずに、収納の棚を3時間かけて作った。
これまで「コミュニケーション的理性」について語ってきたけど、
私は最初この言葉の「理性」に違和感を持っていた。
人間の理性が、素晴らしい発見や道具を作ってきたことは認めるとしても、
その「理性」が逆に私たちを苦しめるということを何度も見てきたからだ。
私はそれを煩悩と言っている。
そして、煩悩は「理性」からも出てくることを忘れてはいけない。
「人間的自然の理性化」 から 「数学の人間的自然化」へ (hamaguri.sakura.ne.jp)
だから、この「コミュニケーション的理性」もすんなりとは受け入れることができなかった。でも、数学をやる意欲や興味や関心はどこから来ているのかを考えていたら、これらもすべて共同体の中で培われたものだと感じた。例えば、図形の定理の証明も、数学共同体(中学校から大学までの授業の中で)の中で培われたものだ。
また、『アブダクション』の中に、パースが人間の理性を進化論的にとらえ、食べるということが科学の元であり、子育てが社会の元だと言っていた。これは「真理性基準のコミュニケーション的理性」と「規範性基準のコミュニケーション的理性」にぴったり当てはまり、さらに遊びも加えて三つに分けている所に合点した。
「自由」と「公平」の原点
さて、私たちは自分には能力と人格があると思っている。
そして、あの人はできる人だとか、人格者だとかと評価している。
でも昔の人はそうは思っていなかった。
彼らには身分(能力と人格が未分化な状態)があるだけだった。
では、いつから能力と人格がわかれたのか。
それは資本主義の時代になってからだ。
つまり「労働力が商品化」されてきてからだ。
「私の労働能力は商品として売買できるが、人格までは売ってはいない」
とかを自覚するようになってからなのだ。
つまり、私は労働能力だけで評価されたいし、人格は私のものだと思いたい。
そうすると、能力とは別に人格が誰にでもあるということがわかってくる。
子どもにも、女性にも、障がい者にも。
ここから人格の自由や独立性などが意識され、人権が明らかになってくる。
ところが、個人の能力と人格はそもそも分けることのできない一体のものである。
実際に会社で働いている時は、人格もそこに縛り付けられている。
だから実際は能力だけでなく人格も売っているのだ。
すると、人格の商品化も起こってくる。
キャラクターとか人柄が売りとか。
(そう言えばタレントって才能ある人という意味だったよな)
能力だけでなく人格まで売ってしまったら、奴隷と同じになってしまう。
これをどう克服したらいいのだろうか?
それは自由時間を持つ事である。