夜、教え子から電話がかかってきた。
何となくうまくいっていないらしい。
そこで、自分が無知(何も知らない)で無力(何もできない)であるということを知っているという「無知の智の態度」のことを話した。
この態度によって、人を見る目、接し方が変わり世界が広がってくるという話を。
彼は「できるかどうかわからないけど新しい見方です」と言っていた。
私達は、人格をも評価されたらどうなるだろう?
持っている能力が全てだと思っている人はどうなるだろうか?
その能力を否定的に評価されたらどうなるのだろうか?
これは私達の存在意味(価値)につながってくる。
では、能力や人格とは変わらないものなのか。
当然変わる。
成長し発達するからだ。
この成長と発達こそが私たちの存在なのだと捉えると、異なった見え方ができる。
例えば、次のような貧困を考えると、(ひきこもりは貧困なのか?)
この状態に追い込んだものは何か?
孤独であり、意欲が出てこない状態に追い込んだものは何か?
それは、決して個人の能力や人格ではない。
だって、個人の能力や人格はこれからも発達するものだから。
だから、これは発達が疎外されたのだ。
ところで、「貧困」の反対語は「富」である。
例えば私有財産があること。
では、そもそも私有財産とは何か。
(privateはフランス語では下図のような意味だという)
(毛坊主と妙好人 その二 列島でも財産をあずかりものと受け取っている人がいた)
このあくまでお金を増やそうとする貪欲が、今の世界を動かしている。
この「富」に対して「人間的富」を取り上げる。
それはずばり、「人間的富」とは人間発達=コミュニケーション的理性の発達
すると「貧困」の意味も変わってくる。
マルクスは 「絶対的貧困とは売るべき商品として労働力しか持たない状態」と考えた。(労働力以外には何も持たない「財産からの自由」の状態に置かれた労働者の貧しさ)
労働力さえあれば生きていけるのに、なぜだろうか?
次の図は上が「動力」で下が「制御」。
手を使うためには当然脳も使わなければならない。
だから、道具を使っている段階では、労働は構想と技術を伴い、職人に見るように人格も統合されていた。(ちなみに労働によってつくられるのはモノ(商品)だけではない。私たちのスキルや感覚などの認識能力や感性なども同時に創られる。)
手のスキル、頭脳の知恵や経験知や暗黙知に従ってモノを造っていた。
ところが、次の機械の段階になると、生産手段は労働者にはない。
そして手のスキルを使わないで、マニュアルなどを使うようになる。
マニュアルということは誰でも出来る頭を使うということだ。
この段階になると労働者は機械の部品と変わらなくなる。
機械を動かす精神労働と全体労働を資本が握っているので、労働者は肉体労働や部分労働だけになり、いつでも交換可能になる。
主体性も統一性も多様性も専門性も必要なくなる(剥奪される)。
この状態が「絶対的貧困」(スキルや感性や経験知や暗黙知も奪われた状態)。
そしてさらにコンピュータによる制御の時代に入ると、機械を制御するという最後に残された脳のはたらきをも奪われる。
この段階で心配なのは、これらを進めているのが強大な資本であること。
つまり資本の生産力をますます拡大する方向に進んでいること。
この流れは、教育における「期待される人間像(労働者像)」の変化も示していることに気がつく。科学教育・技術教育もこの流れを補完していたことに気がつく。
つまり、資本主義はその必要から教育制度を生み出している。
絶えざる技術革新のもとで、それに適合的な労働能力、新技術に適応できる能力を教育に求めている。
マルクスはこれを予想していたのだろう。
では、彼はその逆である「人間的な豊かさ」をどうとらえていたのだろうか。
「ゆたかな人間は、同時に人間的な生命発現の総体を必要としている人間である。
すなわち、自分自身の実現ということを心の底から願う人である。」