一升瓶は冷蔵庫に入れないで、雪の中で保存しておく。
夕方取り出して飲むと心なしかとてもおいしい。あと少ししかない。
この頃「国民国家の教育」ではなく「共同体の教育」を考えている。
共同体の教育の方が大切であって、具体的にはどんなんだろうと。
ふと、古代オリンピックはなぜ始まったのだろうかと疑問を持ってしまった。
本当にポリス間の平和のために始められたのだろうかと。
関廣野氏の『教育、死と抗う生命』を読んでいたら合点がいった。
古代ギリシャ人はやがて死すべきはかない存在として人間を見ていた。
だから、はかない個人の中に価値とか栄光を見出すのではなく、ポリスという集団に価値とか栄光を見出していた。(念のためポリスは国家ではない)
ポリスに参加することで人間の有限性を超克するのである。
だから個人の名誉よりもポリスの名誉なのか。
一人一人の人間はどんなエリートであっても弱く愚かではかない存在である。だからギリシャでは独裁者を許さず民主制が発達した。(民主主義ではない)
個人ではなく種としての人間を自覚するから、知識の蓄積も始まり科学も発達した。
彼らにとって時間は破壊者で、あらゆるものを滅ぼしてゆく。
時間の進行が進歩などとは到底考えられない。
そのギリシャ人たちを支えたのが、いずれ死すべき人間であるけれども「生きるかぎりは最大限、自分の能力を発揮して生きよう」といういざぎよさが、古代オリンピックにみられたスポーツマンシップだ。
戦いの中の一瞬の輝き。だからこそ互いを讃え、彼を生み育んだポリスを讃える。
確かにいろいろな意味で競技者は時間に縛られているな。
一瞬だからこそ、そこに死を感じるからこそ、という視点は新たなものだった。
オリンピックを見るときにそこにはかなさ=死を感じるから美しいと感じると。
記録が残るというイメージは現代のものだな。
時間に縛られている私たちの。