如来のさとりの光と一つになる

御開山のお手紙から

また、
 
真実信心うるひとは すなはち定聚のかずにいる
不退のくらゐにいりぬれば かならず滅度をさとらしむ
 
真実の信心を得る人は、 たちどころに正定聚に入る。 その人は*不退転の位に定まっているので、 必ずさとりを開かせていただくのである。
 
とあります。 「滅度をさとらしむ」 とありますのは、 この世の命を終えるとき、 真実の信心を得ている行者の心は、 真実の浄土に至ったなら、 そこで阿弥陀仏の限りない命に支えられ、 限りない光明のはたらきにつつまれることにより、 如来のさとりの光と一つになるのです。
 ですから、 「大信心は仏性なり、 仏性すなはち如来なり」 と仰せになっているのでしょうか。 これは、 阿弥陀仏が第十一願・第十二願・第十三願にお誓いになっていることであると心得ています。
 罪深いわたしたちのために、 大いなる慈悲のお心からおこしてくださった尊くありがたい本願があるうれしさは、 心にも思うことができず、 言葉にも表し尽すことができません。
 はかり知ることのできない遠い昔から、 世にお出ましになった数限りない仏がたのもとで、 さとりを求める心を起しても、 自力ではどうしようもありませんでした。
 ところが、 釈尊阿弥陀仏の巧みな手だてに導かれ、 今では本願を疑い自力でさまざまな行を修めようとする思いはありません。
 すべてのものを摂め取ってお捨てにならないという無礙光如来の慈悲のはたらきにより、 疑いなく信じよろこんで、 ※たとえ一声の念仏であっても浄土に往生することが定まり、 それが阿弥陀仏の*誓願の不可思議なはたらきによるのであると心得たからには、 どれだけ聞いてもどれだけ見ても飽きることのない浄土の教えが説かれた聖教も、 善知識にお会いしたいと思うことも、 摂め取ってお捨てにならないというはたらきも、 信心も、 念仏も、 ※すべて人のためであったとありがたく思われるのです。
 
如来のさとりの光と一つになる
浄土に往生することはこういうことだ。