むなしく過ぐる人ぞなき

 午前中2時間ほど雪下ろしをした。

雪が軽いうちにと思っていたが、雪が止んだら急に重くなってきた。
柄の長いプラスチックのスコップを使ってやったら、割と楽にできた。
 
さて、
「不虚作住持功徳」を調べていて、「浄土論」を読まなければと思った。
浄土論は私にはやっぱり難しい。
 
「不虚作住持功徳」の意味を調べてみる。
「虚しくなさない生き方ができる果報」
「虚しくない生き方の徳性」
「虚しくない生き方の道」
 
浄土論は浄土に往生するための五つの門が示してある。
身業(礼拝)、口業(讃嘆)、意業(作願)と智業(観察)、方便智業(回向)である。
これらは浄土に往生するための行者の行であるが、
これも全てが法蔵菩薩の願の中に入っている。
したがって、法蔵菩薩と一緒にその行を成し遂げるのであって、
私たちが成しているのではなく阿弥陀仏の廻向である。
そうすると、私たちがなすべきは、報恩の礼拝、讃嘆の念仏だけとなる。
 
ところがこれは簡単には納得できない。
私は我執(思い込み)からは簡単には抜け出ることができない。
でも、そういう私の思い込みを観察さ(気づか)せるはたらきがあることに気がつく。
天親菩薩は、阿弥陀仏のうるわしさとそのはたらき(実践道)を観察する八つの方法を示し、
その最後に「不虚作住侍功徳の成就」を示す。
 
浄土論(天親菩薩)
「何が不虚作住持功徳の成就であるか、偈文に
阿弥陀如来の本願力を観ずるに これに遇あうてむなしく過ぎるものはなく
よく速やかに海のごとき大きな功徳を 満足させてくださる
というてある。
すなわち浄土に生れて阿弥陀仏を見たてまつれば、
まだ平等法身をさとらない初地以上七地までの菩薩も、ついには平等法身をさとって、
八地以上、さらにそれ以上の菩薩たちと、
ついに同じように寂滅平等をさとることができるからである。」
 
法蔵菩薩の願のはたらきを心に思い浮かべて見れば、浄土に往生し、
全てが平等であるとさとり、人生を虚しく過ごすことは無い。
と言われる。
曇鸞大師はそれをさらに進める。
 
不虚作住持功徳成就というのは、 つまりこれは阿弥陀如来の本願力である。
いま略してこの世の虚妄の業からあらわれたものがあてにならぬということを示し、
それによって、かの仏力のいつわりでなく変わらないいわれをあらわそう。
この世においては、人が自分の食事を節約して多くのさむらい)を養っても、
船の中で禍におうて死ぬようなことがある。
金を積んで庫に満ちていても、餓死を免れなかったこともある。
こういうようなことはこの世に多くある。
得たのが得たのでなく、在るのが在ったのでない。
みないつわりの業によるものであるから永くたもつことができないのである。
今いうところの不虚作住持とは、
今日果上の阿弥陀如来の自在の不思議力とにもとづくのである。
法蔵菩薩の願が阿弥陀仏の力を成就し、その阿弥陀仏の力は法蔵菩薩の願に就いて離れぬ。
法蔵菩薩の願はいたずらに起こしたのではなく、阿弥陀仏の力はいつわりの法ではない。
阿弥陀仏の不思議力と法蔵菩薩の願とが相応して、すこしもくいちがいがないから成就というのである。」
 
私たちの偽りの行い(それは実は虚しいものであること)に気づかせ、
そういう行いをしてしまう私たちの悲しさを見て、悲しさのない世界を願いとして立て、
その「願い」を「名号」として完成されたのだ。
そして、名号にはその願い(48願)が全てふくまれている。
願は力(はたらき=名号)となったから、決して空しく時を過ごす人はないと言われる。
 
本願力にあひぬれば
 むなしくすぐるひとぞなき
 功徳(名号)の宝海みちみちて
 煩悩の濁水へだてなし
 
海のように煩悩の濁り水をも同化して差別がなくなる。