第6回目の本典勉強会
もう6回も過ぎたのかと思ってしまう。
あっという間だった。
今日は、行巻の七祖の引文を読んだ。
引文そのモノとその編集のし方を。
8月に入ってからお朝事とお夕事に行文類を3回目程読んだ。
一人で声に出して読んでいると、次から次へと疑問が浮かんでくるが、
こうやって解説していただくと、新しい視点が浮かび上がり嬉しくなってくる。
幾つかを忘れないうちに記しておく。
(1)行文類は
「阿弥陀様が名号となって私を救ってくださっている」ことに尽きる。
私たちは顛倒しており、虚偽である。
顛倒せず、虚偽でないから本当のはたらきなのだ。
この表現をいつも悩むが、梯実円師の言葉を借りると、
(2)どうして顛倒せず、虚偽でないのか?
法性にしたがい二諦にしたがっているから。
この二諦について安方師の説明が印象深かった。
真諦とはさとりそのもので、それはおのずからさとらしめるはたらきをする。
私たちに知らしめ、同一化しようとするはたらきが必ず出る。
その人格的表現を仏という。
そして、俗諦はその働きが具体的に現れたもの。
これは、真如からのはたらきとして、真諦=智慧=不虚偽 であり、
俗諦=仏の言葉としての経=慈悲=不顛倒=方便
と対応する。
いわゆる「真俗二諦論」とは全く異なるとらえ方である。
(3)「いかんが回向する、一切苦悩の衆生を捨てずして、
心つねに作願すらく、回向を首として大悲心を成就することを
得たまえるがゆえに。・・・
往相とは、おのれが功徳をもって一切衆生に回施して、作願してともに
阿弥陀如来の安楽浄土に往生せしめたまへるなり。」
成就された回向なのである。
これは、そうではないおのれと対比させるとおのずから明らかとなる。
(4)以上を和讃でまとめられた。
「十方微塵世界の 念仏の衆生をみそなわし
摂取して捨てざれば 阿弥陀となづけたてまつる」
前の句は 「光明遍照十方世界」
後の句は 「念仏衆生摂取不捨」
前の光明は「身光」で、後の摂取の光明は「心光」
仏の身光は全ての人を照らしているけど、それが心に至りとどいて心光を感じた人
を決して捨てない。
だから、どのような死に方であろうが、どのようになろうが、
仏は決して捨てることはない。
それが阿弥陀仏なのだ。
月影の至らぬ里はなけれども ながむる人の心にぞすむ