今日4月の本典勉強会があった。
楽しみにしていたが、期待通りの至福の3時間を過ごした。
以前からの疑問が解けたことを記しておく。
信巻最初の部分の太字の部分が、
「真実の信楽を獲ることが難い」理由としてはおかしいと思っていた。
しかるに常没の凡愚、流転の群生、無上妙果の成じがたきにあらず、
真実の信楽まことに獲ること難し。
なにをもつてのゆゑに、いまし如来の加威力によるがゆゑなり、
博く大悲広慧の力によるがゆゑなり。
たまたま浄信を獲ば、この心顛倒せず、この心虚偽ならず。
信心を獲ることが難しいわけは、
私たちが如来の救済の不思議な力に依らないからというならわかるけど。
安方師はすぐに指摘して、浄土文類聚鈔の方がわかりやすいと言われた。
しかるに薄地の凡夫、底下の群生、浄信獲がたく極果証しがたし。
なにをもつてのゆゑに、
往相の回向によらざるがゆゑに、疑網に纏縛せらるるによるがゆゑに。
いまし如来の加威力によるがゆゑに、博く大悲広慧の力によるがゆゑに、
清浄真実の信心を獲るなり。
この心顛倒せず、この心虚偽ならず。
まことに知んぬ、無上妙果の成じがたきにはあらず、
真実の浄信まことに得ること難し。
真実の浄信を獲れば大慶喜心を得るなり。
確かにわかる。
で、すっきりして嬉しくなる。
でも、そのために学んでいるのだろうかという気持ちも出てくる。
この最後の文「大慶喜心を得、もろもろの聖尊の重愛を獲るなり。」
私には大慶喜心ではなく、成程というほんの少しの喜び。
「もろもろの聖尊の重愛を獲るなり。」
とは、釈尊から我が親友と言われること。
それは、
私の身の上に、仏の智慧心と慈悲心が具わるから。
だから信心が正因となる。
この仏の智慧心と慈悲心は、
名号となって私に届き、この身にいり満ちて、この口からこぼれ出てくださる。