身口意の三業

高僧和讃曇鸞大師の讃に次の句がある。
 
 諸仏三業荘厳して
  畢竟平等なることは
  衆生虚誑の身口意を
  治せんがためとのべたまふ
 
これは五念門のことを述べたのもだと思う。
名畑応順師の親鸞和讃集の補注を見る。
 
 論註下に
「凡夫の衆生は、身口意の三業をして、以て罪を造って、三界に輪転して窮まり已むことあるなけむ。
 是の故に諸仏菩薩、身口意の三業を荘厳して、用いて衆生虚誑の三業を治するなり」
という。これは、浄土論に仏の八種の荘厳を説く中の第二身業功徳、第三口業功徳、第四業意業功徳の
三業功徳の荘厳を総べて解した言葉である。
 
身業は礼拝=合掌礼拝
口業は讃嘆=称名
意業は作願=欲生
 
「入の第一門とは、 阿弥陀仏を礼拝し、 すなわち本願のはたらきにより阿弥陀仏の国に生れようとするから、 浄土に生れさせてくださる。 これを入の第一門というº と述べられている。 阿弥陀仏を礼拝して浄土に生れようと願うようになるのは第一の功徳の相であると。
 
浄土論に、 入の第二門とは、 阿弥陀仏をほめたたえ、 名号のいわれにかなって如来の名号を称えさせていただき、 すなわち如来の光明という智慧の相によって行を修めるから、 大会衆の中に入らせてくださる。 これを入の第二門というº と述べられている。 阿弥陀仏の名号のいわれにかなってほめたたえるようになるのは第二の功徳の相であるからと。
 
浄土論 に、 入の第三門とは、 一心にもっぱら作願して阿弥陀仏の浄土に生れ、 すなわち思いをやめ心を静める行を修めるから、 蓮華蔵世界に入らせてくださる。 これを入の第三門というº と述べられている。 心を静める行を修めるために一心に浄土に生れようと願うようになるのは第三の功徳の相であると。」
 
一見簡単なことのように思えるが、私の身口意から出る業は、うそ偽りの業である。
第一門にすら入ることはできない。
親鸞さんの左訓は次のようにふってある。
 
虚誑:むなし・くるう
治せん:助くる、消(く)ち失う
 
五念門の修業は法蔵菩薩の行であり、今も私と共に行って下さっている。