法蔵菩薩の五念門行

最後の連研があった。

栃平ふじさんの歌から、二河白道へ、そして五念門へ
と至るストーリーを立てた。

実は昨日昼頃、
五念門を法蔵菩薩のご労苦ととらえると、とてもすっきりとすることに思い至った。
いやそのことは頭ではわかっていたのだけど、
今まで、五念門行を自分の修行につい置き換えてしまう発想から
なかなか離れられなかったのだ。

それが離れたのは、身口意の三業から。
例えば、身業である礼拝門行はとても簡単に思える。
でも、法蔵菩薩が身体を用いて礼拝をするという行は、
カイラル山を五体投地しながら回るという映像を思い浮かべるような行だ。
口業である讃嘆門行は、私の行う称名ではない。
全ての苦しむ人々に、真実のありよう、真実信心を説くことは恐ろしいほどの行だ。

そう考えると、この法蔵菩薩の修行が、名号に込められているからこそ
名号称名が有難いものであると自然にうなづける。
礼拝・讃嘆を自分中心に考えると、簡単だと思ってしまうけど、
それがなぜ簡単になったのか考えなかったのだ。

そして、五念門は浄土の構造を示している。
法蔵菩薩の修行は浄土建立のためだったのだから。
浄土への門は浄土の荘厳だったのだ。

自分中心に考えてしまうことからなかなか離れられないことを身に染みて感じる。