六字のいわれ=這い児の譬え

七里和上の四門は、別々ばらばらのものではない。
それぞれが関連しており、つながっている。
「六字のいわれ」が「這い児の譬え」で説明されている。
だから後の生活はひたすらの御報謝であった。
 
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若き与之助さんに語られた、七里和上の法話「這い児の譬え」
 
あなたお東ですか。(そうでございます。)
 どんな賢いお方でも、凡夫の皮をかぶっていらっしゃる以上は、お阿弥陀様の目から眺めなさると、みんな這い児じゃそうです。這い児が火の中へ這い込んで焼けてまったなら焼く世話いらんで、よかったなーという母はありましょうか。這い児が火にはまって亡くなったら母という名はなくなります。母という責任もなくなります。母という名は、子どもによって初めてできたのが母という名でございます。
 この度、我々が毎日毎日居眠りをしておりながらも、灼熱地獄や八寒地獄や阿鼻地獄へぞろぞろと這い込む我々でございます。そこで、南無阿弥陀仏という母ができて下さったのでございます。
 南無阿弥陀仏という母がおっしゃるには、「おれが言うことを聞いてくれよ。法蔵菩薩となりさがり、菩薩の行を行じたもう時も、一刹那も忘れたことはないぞよ。我々がぞろぞろ這い込むが不憫さに、五劫永劫の骨折って、こしらえ上げたがこの南無阿弥陀仏だぞよ」と仰せられるのです。ありがたいことですねー。これが浄土真宗のいっちの肝要です。
 袴もできた時には、折り目がその通りになっておれど、古うなると折り目がまちまちになる。我が御開山さまから末々のお方々は、悪銭を本として、赤い衣を着たり、紫の衣を着たりして、口には信心じゃ安心じゃというてあーこーいうて下されたのが念仏懈怠の土台となったのです。
 そこで蓮如様がお出ましなされて、墨の衣に墨の袈裟で一向に専修専念にお六字を勧めておくれた。そうして、三国にわし程身を捨てて、念仏を広めたものはあらまいぞというておくれ、そして又、おれほど六字を書いたもののあるまい。そういうておくれた。
 お名号様は一番尊いですねー。ただ、南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏と称えてお浄土へ参る宗旨あるけれど、そこを明らかにしておくれた。それは、ちょうど飾り入れをこしらえて、立たして据えておるようなものじゃ。家が宗旨はそうではない。蓮如様も六字のいわれを、聞けよ聞けよと仰っておくれた。そのいわれは、今の我々が、炎の中へぞろぞろと這い込むを救うて下さるのが六字のいわれなんです。まず、こんなわけですなー。わかりましたでしょう。
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