「ご相続があって」

ふと気がついたら、プチ法話会の時間が来ているのではと思って、
大きな声で「昼飯を食べたんかやぁ?」と聞いてしまった。
昼飯を食べたかどうかわからなかったからである。
つれあいが呆(あき)れて呆(ぼ)けてしまったんかと言う。
 
等距変形で直線が直角双曲線になることを知り、3つの直角双曲線になる3つの直線をさがしていた。
これで、今までわからなかった三角形の心の関係が明らかになると思って。
あまりにも没頭したせいか時間がわからなくなり、ご飯を食べたのかもわからなくなった。
こんなことは初めてである。
呆けるとは幸せなことだ。
 
今回のプチ法話会は10名の方の参加。
例によって念仏の話。
 
ありがたや 我も一世の 相続を
 
と、親父が伝道掲示板に書いていた。
この「相続」を寺の相続、仏法の相続のことだと思っていた。
 
村田静照師の言行録を見ると、
「ご相続があって、おもむろに口を開かれ」と書いていある。
ご相続の合間に法話をされたということ。
つまり、相続とはお念仏のことだ。
 
確かに、有形のものの相続よりもこの念仏の相続が最も価値がある。
 
この八十過ぎまで 生きさせてもらった
お六字様だけ
そーやって ひぐらしさせてもらった
私の事 この婆のことを 思ったら お念仏 申しておくれ 
 
私たちが、仏法を伝えていくことは、
仏の願いであり、十方の諸仏が讃嘆する念仏を伝えていくことであるが、
お六字様を称えてほしいと願うことは、
このような形でしか言えないのだろう。
 
「あんたは信心深い人やで良い死に方をさっせるやろう。」
と言われた方が、
「わしゃ死に方のことは知らん。生き方を教えてもらっとるんや。」
と言われたという。
 
まったく、信心とは生き方である。
心に残った話。