教育の中立性の一つの前提と三つの原則

道徳が教科になる。
それを「道徳の教科化」というが、これがたくさんの問題を持っている。
昨日、そのことについて研究しておられる大学の先生からいろいろ教えてもらった。
 
「道徳」は国語や算数・数学のような教科ではない。
なぜなら数学のように学習する内容がはっきりしないからである。
算数や理科などはある程度学問をベースにして内容の価値を論議できるが、
道徳となると人それぞれ価値観が異なっているので、
内容を決めることは、その人の信仰の自由や思想の自由を侵す恐れがある。
 
また、算数・数学のように評価の基準がはっきりしない。
「計算の力」と「道徳の力」を比べるとはっきりする。
計算の力は一応テストで測ることができるが、道徳の力をテストで測ることはできない。
まだあるが、このようなわけで、道徳は教科には入れられていなかった。
 
ところで、教科ではない授業がもう一つあって、それは「特活」=特別活動(学級活動やクラブなど)。
これは、教科以外で大事なちから…生きていくための諸々のちからを身に着けることを目標にしてきた。
ところが来年度から道徳が、「特別の教科道徳」として教科になる。
教科なので、教科書がある。
この教科書がまた問題である。
一部の教材を紹介してもらったが、少しも面白くない。(これは私の感想)
問題は、教科書となったとたんに、それを絶対視するようになることである。
 
さて、こういったことをどう考えていけば良いのか。
いろいろなヒントと大事な戦略を教えてもらったが、一番基本的なことを書いておく。
 
それは、「教育の中立性の一つの前提と三つの原則」
前提=事実と主張の区別。確定された事実は否定できない。事実の見方は複数ある。
原則=(1)事実の確定と共有
   (2)論争点に関する複数の代表的見解の並置
   (3)見解の判断は子どもがする
この原則は、子どもだけのものではない。
私たちにも当てはまる原則である。
「それはあなたの主張なの?どこまでが事実なの?」「それ本当に事実なの?」
と尋ねることから始まる私たちの対話の原則なのだ。
「政治的な中立性」は、結果として子ども(私たち)から最も大切な判断を奪う。
どう判断したらいいのかを教えるのが教育なのだ。