数学の「エウレカ体験」について

このボケた脳で数学の問題の証明に取り組むのは難しい。

朝日新聞に「大学への数学」の紹介がしてあって、そこにこう書いてあった。

数学が他の教科と違うのは、『解けた』という成功体験がはっきりと得られること

つまり数学を学ぶ最大の効果は、解けたという成功体験を得ることだ。
この体験を「エウレカ体験」と名づける。
このエウレカ体験は、わかっていなかったことが突然わかったり、こういう見方もできるという気づきであり、喜びであり、生きていく上でとても重要なことである。
そのことは私も実感している。

では、そういう体験がどうしたらできるのか。
記事には「数学の一番いい勉強法は、少し難しい問題を、解答を見ないでひたすら考え続けること」と書いてある。

(実はこのエウレカ体験は「何のために数学を学ぶの?」という問いへの答の一つ)

それが私にもできるのかと試してみる。
まず、これを証明してみようとか、解いてみようと思えるかどうか。(これは難しい)
次に解いてみる。簡単には解けない。あきらめるかさらに考えるか。
ここで問題なのか、それが少し難しい問題なのか、自分の実力では到底解けない問題なのかわからないということ。このときこそ師匠が必要となる。
でも、誰も取り組んだことのない問題の場合は、ひたすら取り組むしかない。
それでもやっていると見えてくるとがある。わからないことがわかる。
アプローチの方法は思い浮かぶので、いろいろ試してみる。が、うまくいかない。
やがてアプローチの方法が尽きる。
次にいろいろ調べ始める。辞典を見たり、ネットで調べたり。
そのうちヒントが思わぬ形で降ってくる。
でも、これはその問題をずっと意識していなくてはならない。

最近は答えを見ることの方が多くなってきた。
詰碁の問題なんかそうである。
でも、その答えを何度も並べ直しているうちに、少し見えてくるものがある。
なるほどそう言うことかという見え方。
これが私のエウレカ体験かな。

数学でいうと美しさを感じると言おうか。

ここまで書いてきて、ではこういう学び方は、私が生きる上で大事なことなんだろうかと問うてみる。というのは、こういう問題を解く力は確実に落ちているし、これから問題を解く力が身につくとは思えない。つまり、私の将来のためではない。

としたら、何だろうと考える。
それは「今ここである」という問題なのだ。

昨日の7人の子どもたちが、将来どういう大人になるのだろうかと期待するのは、今やっていることが将来のためという発想が根底にある。

将来ではない。あの子たちは今ここで素晴らしい存在なのだと思う。