数学という豊かなコモン

数学の世界という豊かなコモン(共有財産)がある。

ところが受験というシステムの中で受験数学に変化し、(受験)知として消費されるだけの商品となり、豊かなコモンが奪われている。
私でいえば、30代ぐらいまで時々受験で苦しんでいる夢を見た。

こんなことを書き出したのには訳がある。
「読むことの教育」(竹内常一著)を読んでいて、次の文章に出会ったからだ。

私は自分自身が暴力と試験の恐怖から自由になるのに長い歳月をかけなければならなかった。敗戦前後の子ども期に受けたおとなからの殴打と子どものいじめという二つの暴力は、私の中に深い痕跡を残している。

この文(文脈は暴力いじめについてのものだけど、そこに「試験」が入っているという違和感)と出会って、私における受験を思い浮かべてしまった。
「試験の恐怖」特に数学の試験。
その恐怖が、「受験とは異なる数学」への展開の道へと進ませたのではないか。
そもそも数学を理解することは苦手だったし、問題を解く才能もないと思っていた。
ところがようやく最近(60を過ぎてから)になって、数学が何かわかりかけ、そして時間はかかるけど問題を解くこともできるようになってきた。
それが楽しい(面白い)と思えるようになってきて、ようやく試験の恐怖から自由になってきたと感じる。

先日、3円が接する場合のある性質を発見した。
でも、それを証明しようとはしなかった(豊かなコモンを探ろうとはしなかった)。
昨夜、100分de「資本論」を見た後、もしかしたら解けるのでは(解かないと勿体ない)と問題化してみた。
12時まで考えたけど、試行錯誤をしているだけであきらめて寝た。
今朝4時ごろ、考えていたら解けたと思った。
ところが冷静になってみると、間違い(循環論法―これが多い)だとわかる。
どうして間違えたのか調べていたら、たまたま降ってきた
今度は喜びが湧き出てくる(正解かどうかはこれでわかる)。

「はまぐりの数学」は、そういう自分自身がぶつかったり、気がついた問題や現象を書き留めたものだ。
子どもたちとともに、そして仲間たちとともに、そこにある豊かなコモンをともに見つけ出していきながら。
それは、上から目線で数学とはこういうものだと説明することではない。
まして数学の知識を商品として消費するものでは決してない。
そうならないため、私はレトリックと道具を必ず入れるように努力している。

わかるということは、決して一方通行ではない。

「理論がわかる」→「理論を実践する」

逆の方向もある。
でないと、理論の理解ができない人(私)は永久に実践(応用)できないことになる。

 そこで、    「
       ↗↙  ↖↘
     「実践」 ⇄ 「理論

と考えると、実践をしながらその意味を探ることで理論がわかるという道筋も見える。
数学のコモンが豊かなのは理論だけにあるのではない。
この三角形の中に、さらに「私」と「私」が結びついたときに広い世界が広がってくるし、その中にこそ豊かなコモンだあるのだ。

これも「ヴィゴツキーの三角形」の変形だなと気が付いた。