無辺の聖徳

昨日は9条の会で基本的人権について話す。
 
信教の自由だけを取り上げると、
「すべての人が対等の横の関係にある。つまり、誰かが誰かを手段として扱うことはできない。人は誰にも何にも支配されない。だから、誰をも支配することはできない。」
 
これは仏の願いであり、私たちへの呼びかけである。
私たちには、この仏(生者・死者)の呼びかけにどう応答し、自分の意志と判断にもとづいて応答の責任をどう果たしていくのかということについての自由がある。
そして、その判断は仏(生者・死者)との約束となり、だからこそその約束に義務を負う。
信教の自由とは、
仏の呼びかけに応えて、自分の意思と判断で仏と約束をすること。
 
こんなことを話した。
それは、「人に迷惑をかけなければ、何をしても自由だ」
という狭い自由のとらえ方を乗り越える。
また、「仏(死者・生者)」とは、私に関わる全ての人・モノ・コトである。
無辺の聖徳である。
 
いはんやわが弥陀は名をもつて物を接したまふ。
ここをもつて、耳に聞き口に誦するに、無辺の聖徳、識心に攬入す
永く仏種となりて頓に億劫の重罪を除き、無上菩提を獲証す。
まことに知んぬ、少善根にあらず、これ多功徳なり」と。