浄土と国家

仏教における自己とは、真実の自己である。
佛が十方衆生と呼びかけた自己である。
また親鸞一人がためと自覚した自己である。
その自己は日本国の人民の一人でありつつ同時に国家よりも大きい。
その自己は浄土へと開かれている故に、仏法に背くことを「誤っている」と言うことができる。
そのような自己になることこそが戦争責任を荷う者となることである。
 
「私は一人の念仏者として、法蔵菩薩の本願に信順しつつ
日本国が地獄(戦争)と餓鬼(貧困)と畜生(恐怖)の無い国であることを願う。
 
私は一人の日本国の人民として、親鸞聖人が『和国の教主』と仰がれた
聖徳太子の十七条の憲法の精神に導かれつつ
日本国が何よりも”和”(やわらぎ)―調和と平和―を大切にする法治国家であるようにしたい。
 
私はこの地球に住む人類の一人として、
現代世界から”いかにして殺し合いの連鎖を断ち切ることができるか”という問いかけに応答しつつ、
日本国が、「銃を持った民主主義(Democracy of with Gun)」ではなく、
”銃を持たない民主主義の(Isonomy without a Gun)”の国であることを欲する。」
 
cracyは支配。isonomyは無支配。
 
私は念仏者としてなぜ行動をしないのか。
なぜ語らないのか。
それは、言っても何にもならないと無力感をもっていた。
言うということは、同調してほしかったり、相手を黙らせることではない。
全ての人が語るようになること。
それは責任を荷える者となることである。
 
 
先日、子どもたちがピッキーにクローバーの花を積んできてくれた。
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学校の帰りによって、「ピッキーが死んだの?」と声をかけてくれる子もいるという。
首振りドラゴンを作って見せてあげようと思う。