暁烏敏の戦争責任

児玉暁洋師の「真宗憲法九条」 ― 第一願の意味 ―
を読んでいたら、ご自身の師である暁烏敏師の戦争責任について
きちんとまとめる必要があると書いてあって本が紹介されてあったので
それを借りて読んでいる。
 
本の題は「世界を開く仏教」 樹心社
 
暁烏師は、盧溝橋事件(昭和12年)の後に『万歳の交響楽』で次のように書いている。
 
「太平が続くと、人間が利己的になる。この利己心を打破するには、
戦争は最もよい導きである。(中略)利己的生活をしておるものが凡夫であり、
自利利他円満の生活をするものは神仏である。
戦時に働いてをる軍人は、既に利己的な生活を解脱せしめられて神仏の生活に
入らしめられてをるのである。この意味において戦争は人間を浄化せしめるものである。
戦争は人間浄化の重大な神業である。
私共は戦ひのために戦ひを好むものではないが、戦ひは人間を浄化する神仏の
なさしめたまふところであると信じておる。
戦争は沢山の人の命を奪います。この点痛心の至りである。
しかし、よく思えば、戦ひのために捨てる命は国の命として永遠に生きるのである。
天皇陛下万歳と唱えて戦場に屍をさらすものは、神仏の国に生まれるのである。
(中略)
万歳は永遠の生命であり、無量寿であり、阿弥陀であります。
これは人間中心の願求であります。
その時その処に相応した言葉は最も力強くその言霊を表現します。
私共日本人にとりて今日の場合最も適切な救済の言葉は天皇陛下万歳の叫びであります。」
 
これを読むと古いと感じるか、今でも、と感じるか分かれると思うが、
私は決して昔のことではないと思う。
戦争を人間の浄化に使うという考えは今でもある。
何よりも南無阿弥陀仏が万歳になってしまっている。
私も念仏をそのようにしてしまっていないかと振り返らねばならない。
 
児玉師は、師である暁烏師の責任を次のようにまとめていた。
 
(1)戦争がなんであるのか、如実にはわかっていなかったこと。
 張作霖暗殺や満州侵略という陸軍の謀略。
 そして近代戦が一般市民をも巻き込む破壊のシステムであること。
 それをわかろうとしなかった罪。
 
(2)仏教徒が仏教に背いた罪。
 御心のままに奉って私心は少しも無いことが、南無阿弥陀仏の南無=帰命に通ずとしてしまったこと。
 日本という国家の誤りを知り批判する可能性を持つ「浄土への開け」を閉じてしまったこと。
 
「虚偽が真実に支えられているからこそ、人は虚偽を虚偽と知って、虚偽を選び捨て、真実を選び取ることができる。
・・・自己決定という選び無しに、帰依するということ無しに、自分が生きるということとは無関係に、私の分別意識の対象として真実なる仏陀と虚偽なる神々があるとすることは間違いである。」
 
この中に「戦争責任を担うことができる者」とはどのような個人であるかが書いてある。
そもそも、大日本帝国憲法の中にいる限りは戦争責任は成り立たない。
万世一系天皇が統治するわけだから。
児玉師はこれに、第一願無三悪道(戦争と欠乏と恐怖の無い国がある)を対置する。