仏教の経済論

「お布施に見合うようにお経をたくさんあげてほしい。」
「千円出すから千円の価値があるものをよこせ。」
こんな話を聞くと、つい「法施の対価がお布施」と考えてしまう。
危ない危ない、危うく魔道に陥る所だった。
 
グローバル資本主義新自由主義」は全てを商品に置き換える。
商品に置き換えるものはお金でねうちを量ることができる。
これらはすべて仏教でいう私たちの心で起こる煩悩である。
 
「感動をあるがとう」「勇気をもらった」
なんと、気持ちをもモノ化し、商品のように売り買いできるようになった。
こうやって、グローバル資本主義は、音楽などの芸術、教育、医療、介護までも介入してきている。
悲しいことだ。
 
そして、私たちは、そういう商品化されたものを消費するだけの人になってしまっっている。
(これを主体化=服従化=煩悩という)
でも、この世界に生きているかぎり、お金は無くてはならないし、
経済的な効率を考えないと破綻してしまうよ、という声が聞こえてくる。
 
経済的な効率の追求とは、
「より少ない代価で価値のある商品を手に入れようとするのが賢い生き方だ」と考えることをいう。
ところがこの考え方は、まずいことを生み出してしまうことがある。
例えば、学力も商品とすると、その商品をより少ない代価で手に入れようとする。
つまり、できるだけ少ない時間で、できるだけ効率的に学力を手に入れようとする。
その結果得る学力は貧困なものとなることは簡単に予想できる。
 
つまり、お金による交換はとても便利だが、その交換によって単なる交換の道具だったお金が最もねうちのあるものとなり、さらにお金によってモノ(商品)の価値を計ることが当たり前になり、やがて、労働を商品化し、全てのモノを商品に変えてしまう。この全てのモノ・コトを商品化(=貨幣)してしまう所が魔道なのだ。
 
では、仏教ではそういう経済的なことはどうしていたのか。
坊さんはお布施をいただいて生活しているから、お布施=給料?。
お布施は、お経や法話(=労働)の対価としていただくものなのだろうか。
たぶんそう考えている人が多いと思う。
実は、お布施というのは修行のひとつなのだ。
そして、お経や法話も法施という行なのだ。
 
仏教では快楽や苦に執着してはいけないと教える。
それは執着が心をゆがめるからだ。
モノやコトに執着することによって、判断が狂い、無いものをあると見てしまう。
それを無くすトレーニングとして布施がある。
モノやコトを手離してゆく(捨てる)こと、これを布施=贈与という。
布施には大きく三つある。財施(持ち物を与える。いわゆるお布施はこれ)、法施(より良い生き方を語る)、無畏施(相手に畏れを与えない)
この無畏施には、和顔施愛語施、慈眼施、捨身施心施床座施房舎施と7つある。
無財の七施といって、お金がなくてもできる布施である。
つまり、お経・法話の法施も財施も、どちらもそれぞれの行なのである。
労働と給与ではない。
このことについて次のサイトがとても面白かった。
 
贈与とお布施とグローバル資本主義
真宗には御恩という考え方がある。
この考え方は、どこか恩着せがましい気がして、わかりにくいものだったが、
内田さんの贈与論を知って、そういうことだったのかと納得した。
恩はわかりにくいが、贈与だとわかり易くなるのは、
私自身が経済的人間になってきているからなのかもしれない。
 
≪贈与論≫
自分自身は何もしていないのに先行者から贈り物をしてもらった。
受け取った方は、負債感があるから次のひとにパスをする。
教育はまさにこれで、贈与をされていた。
贈与されたものは商品ではないので、次の人に渡すしかない。
 
親から子への贈与もこういったものだろう。
この身体も言葉も土地も家も家族も膨大な仏典も、
今までの受けてきた様々な行為や言葉も全て贈与であった。いや預かりものであった。
この贈与を受け取り豊かな人生を送ったからには次の人に渡すしかない。
 
前に生れんものは後を導き、後に生れんひとは前を訪へ、
   連続無窮にして、願はくは休止せざらしめんと欲す。
   無辺の生死海を尽さんがためのゆゑなり            教行信証