信知

 教行信証の中に親鸞さんの言葉があり、その中に「ハッキリと私は知らされた」とか「いま、 まことに知ることができた」という自覚の言葉がある。
それは、「信知 誠知 真知 良知 明知」と書かれている。
これらの違いを親鸞さんは明確に区別していたと思う。
この言葉には、真知(まことにしんぬ)誠知(まことにしんぬ)が良知(まことにしんぬ)明知(あきらかにしんぬ)信知(まことにしんぬ)と訓がふってある。
 
信知について最初に出てくるのが、善導大師の二種深信のところである。
そこには信知(しんち)が出ていて、御自釈では信知(まことにしんぬ)と書いてある。
当然、二種深信の「信知」をどう読むのかということを受けている。
信知は普通は「信じて知る」と読むが、「まことに知んぬ」と読んでいるのはなぜだろうか。
もっと言えば信じることと知ることはどうつながっているのだろうか。
 
二種深信は3回ほど引用され、しかも原文が異なっている。
 
 まず、善導大師の原文である。
「深心というのは、すなわち深く信じる心である。これにまた二種がある。一つには、わが身は今このように罪深い迷いの凡夫であり、はかり知れない昔からいつも迷い続けて、これから後も迷いの世界を離れる手がかりがないと、ゆるぎなく深く信じる。二つには、阿弥陀仏四十八願衆生を摂め取ってお救いくださると、疑いなくためらうことなく、阿弥陀仏の願力におまかせして、間違いなく往生すると、ゆるぎなく深く信じる。」
 
 次に、智昇の引用文を引く。
「深心とは、すなわち真実の信心である。わたしはあらゆる煩悩をそなえた凡夫であり、善根は少なく、迷いの世界に生れ変り死に変りしてそこから出ることができないと信知し、いま阿弥陀仏の本願は、名号を称えることわずか十声などのものやただ名号を聞いて信じるものに至るまで、かならず往生させてくださると信知して、少しも疑いの心がない、だから深心というのである」
後者の方を2回も引用されている。
 
その大きな違いは「深く信じる」と「信知」である。
後者を2回も引いているということは、その信知が大事であるということだろう。
このことは信心をどうとらえるのかということにも通じる。
信知は唯信ずることではない。信じて知ることである。知って信じること、いや知ることと信じることが同時におこることである。
それは、弥陀仏の因位の願のいわれを知ることであり、自分自身を知ることである。
それを強調されたのだ。