駒沢勝師の「目覚めれば弥陀の懐」を読んでいる。
無差別知と差別智の違いから法性法身を定義していたのがとても印象的。
機法一体論を法の方から明確に示されているのは納得できた。
差別智しか持っていない我々が無差別智の法性法身がわかるのはなぜだろうか
という問いは根源的で、そこから信や念仏のはたらきがきちんと説明されていた。
科学はあくまで差別智で、今でも学会で次から次へと新発見がなされているのは
科学が何も知らないことの証明だという説は頷ける。
無差別智はもちろん知らないことはない。
葉っぱのフレディの譬えが私たちにわかるのはなぜなのだろうか。
でも、そこでとらえられた楓=阿弥陀は差別的な知である。
そこから法性法身へとつながる問題は興味深々。
二種深信の機の深信は絶対的な自己否定で、
これは自己肯定的な自己からは決して出てこないものだという。
本から目を離して外を見ると、
朝日に雪の結晶が反射して、きらきらと輝いている。
こちらが動くと、きらきらする雪が動いている。
とてもきれいだ。