差別と平等

阿含経典から釈尊の言葉
 
アーナンダよ、なんじらは、わたしを善き友とすることによって、
老いねばならぬ身でありながら、老いより自由になることができ、
死なねばならぬ人間でありながら、死より自由になることができるのである。
アーナンダよ、それを考えても、善き友をもち、善き仲間とともにあることが、
この道のすべてであることがわかるではないか
 
人の思いはどこにでも飛んでいくことができる。
だが、どこに飛んでいこうとも、自己よりも愛しいものを見つけだすことはできない。
それと同じように他の人々にも自己はこよなく愛しい。
されば、自己の愛しいことを知るものは、他の人々を害してはならぬ
 
厳しいカースト制の中で、釈尊は差別をするなと大上段に言われているのではない。
自分を大事に思うものは、他を決して害しないと言われているのだ。
釈尊は、自己から出発して他へと広げておられる。
これが、差別をしてはいけない理由である。
 
次は、唯信鈔文意から親鸞さんの言葉
 
「能令瓦礫変成金」といふは、「能」はよくといふ、「令」はせしむといふ、
「瓦」はかはらといふ、「礫」はつぶてといふ。「変成金」は、「変成」は
かへなすといふ、「金」はこがねといふ。かはら・つぶてをこがねにかへな
さしめんがごとしとたとへたまへるなり。れふし・あき人、さまざまのもの
は、みな、いし・かはら・つぶてのごとくなるわれらなり。如来の御ちかひを
ふたごころなく信楽すれば、摂取のひかりのなかにをさめとられまゐらせて、
かならず大涅槃のさとりをひらかしめたまふは、すなはちれふし、あき人など
は、いし・かはら・つぶてなんどを、よくこがねとなさしめんがごとしとたと
へたまへるなり。
 
なぜ、私たちのような「瓦礫」が「黄金」に変成すると譬えられたのか。
それは、大無量寿経の第三願「悉皆金色の願」からきている。
 
(3) たとひわれ仏を得たらんに、国中の人・天、ことごとく真金色ならずは、正覚を取らじ。
 
この願は人種の絶対的平等を示し、
全ての人が自ら光を放つような存在となることを願っておられる。
そして、次の第四願「無有好醜の願」は、個人の絶対的平等を示している。
 
(4) たとひわれ仏を得たらんに、国中の人・天、形色不同にして、好醜あらば、正覚を取らじ。
 
瓦礫のような私が、なぜ差別をしているとわかるのだろうか。
仏は差別された者の悲しみを知っている。
そして、差別している者の苦しみを知っている。
だから、こういう清浄なる浄土を仏は示した。
そして、浄土を知ることができるからこそ、
私たちは自らの中にある差別的な心を見ることができるのだ。