智慧の光明はかりなし
有量の諸相ことごとく
光暁かぶらぬものはなし
真実明に帰命せよ
サビは「女ごころ」でなくてはならない。男ごころではとても演歌にはならない。
北の宿を西の宿に変えてもOK。
さて、この和讃には左訓(カタカナで書かれた解説)がとてもたくさん書かれている。
その左訓が何とも言えずよい。カタカナは読みにくいので、勝手にひらがなと漢字で表す。
智慧の光明はかりなし
チハアレハアレコレハコレトフンベチシテオモヒハカラフニヨリテシユイニナヅク
(智はあれはあれこれはこれと分別して思い計らうによりて思惟に名づく。
慧はこの思いの定まりて、ともかくも働かぬによりて不動に名づく。不動三昧なり。)
有量の諸相ことごとく
ウリヤウハセケンニアルコトハミナハカリアルニヨリテウリヤウトイフ ブチポフハキワホトリナキニヨリテムリヤウトイフナリ
ヨロヅノシユジヤウナリ
(有量は世間にあることは皆量りあるによりて有量という。仏法は際辺無きによりて無量と言うなり。よろずの衆生なり。)
光暁かぶらぬものはなし
ヒカリニテラサルヽナリ(光に照らさるるなり)
真実明に帰命せよ
シントイフハイツワリヘツラワヌヲシントイフ(真というは偽り諂わぬを真という)
ジチトイフハカナラズモノヽミトナルヲイフナリ(実というは必ずものの実となるをいうなり)
智慧とは何かについて智と慧を別けて説明がしてある。
分別してあれこれ考えていたことが、やがて動かなくなってくる。
それを智慧という。
不動三昧だから、シャマタ=止=定の状態になる。
思惟がやがて止まると智慧となるというとらえ方は、
分別を否定しているのではないということを示しているし、
あれやこれや悩んでいることもやがてとどまるということを示している。
勇気を与えてくれる説明である。
もう一つ、真実についての説明が素晴らしい。
真実も二つに分けて説明してある。
真というは偽り諂わぬこと。実とは必ず我々の実となること。
真実とは偽り諂わないことで、それは必ず我々の実になることだと言われたのだ。
真とは、偽らなないことというのは当たり前だ。
親鸞さんはさらに諂わぬことと言われた。
諂わない言動が必ず身につくようになる、それが真実ということなのだ。
これは自分で行おうとする限り、かなり難しいことのように思える。
でも、一番大事なコトである。
特に現代において。