不可思議と不思議

ようやくタイヤを交換した。雨に濡れながら。
図書館で絵本を7冊借りる。
この頃絵本は図書館で借りている。
マンボウで15冊まで借りれる。

 

正像末和讃には「不思議」という言葉が何度も出てくる。
親鸞さんは不可思議と不思議は違うと考えられていたのではないか。

まず「思議」とは思い考えをめぐらすこと。
だから「不可思議」は思い考えをめぐらすことができないこと。
これは私たちの立場を示している。
私たちには思い考えをめぐらすことができないことがある。

それに対して、「不思議」は思い考えをめぐらすことではないこと。
これは仏を主語として述べるという意味となる。

とすると、
『この道理をこころえつるのちには、この自然のことは、つねにさたすべきには
あらざるなり。つねに自然をさたせば、義なきを義とすといふことは、なほ義
のあるべし。これは仏智の不思議にてあるなり。』

という「不思議」は「仏が思い考えをめぐらさない」と読める。
そういう智慧というのは何だろうか?

さらに、和讃

『仏智不思議を信ずれば
  正定聚にこそ住しけれ
  化生のひとは智慧すぐれ
  無上覚をぞさとりける

 不思議の仏智を信ずるを
  報土の因としたまへり
  信心の正因うることは
  かたきがなかになほかたし』

「不思議の仏智」は「私たちが思い考えることのできない智慧」ととらえるよりは
「思い考えをめぐらさない仏の智慧」ととらえた方が良いのではないか。

そうすると、「仏智の不思議」は「仏が思い考えをめぐらさないことを」となり、
「不思議の仏智」は「思い考えをめぐらさない仏の智慧を」と読むことができる。

仏を主語とするか、私を主語とするかの違いは、ここにある。

ここまで書いて何だか変だなと感じるようになった。
思い考えることをしているからである。
常に沙汰しているからである。

『不思議』は「語りえないこと」なのだ。
「語りえない仏の智慧」「仏の智慧は語りえない」

「不可称不可説不可思議の」
量ることも説くこともできず、心も言葉も及ばない智慧があることを信じること。

『語りえぬものについては、沈黙せねばならない』(ヴィトゲンシュタイン
これは暗黙の次元なのだ。
そして、
この不思議によって支えられた「生きる」ということの実現が「価値」を生成(創出)する

その生成を阻害するものは暴力である。
親鸞さんは、それは「語りえない仏の智慧」を疑うことであり、「自力をたのむ心」であると語られる。その他のこと・嘘や偽りの心の問題ではないと。