至福の3時間を過ごした。
聞いていて涙があふれたところだけを記しておく。
それは信巻の大信釈・三心の深信の所
法然上人43歳の時のこと
称名念仏でなぜ往生ができるのかを問いつめてついに出遇った言葉。
『又上人かたりての給はく、世の人は、みな因縁ありて道心をばおこす也。
いはゆる父母・兄弟にわかれ、妻子・朋友にはなるる等也。
師匠名をさづけて法然となづけ給ひし也。
されは出離の心(志)ざしいたりてふかかりしあいだ、もろもろの教法を信じて、
もろもろの行業を修す、
しかるにわがこの身は、戒行において一戒をもたもたず、
禅定において一もこれをえず。
智恵において断惑証果の正智をえず、
これによて戒行の人師釈していはく、
「尸羅(戒)清浄ならざれは、三味現前せず」といへり。
又凡夫の心は物にしたがひてうつりやすし、たとふるにさるのごとし、
まことに散乱してうごきやすく、一心しづまりがたし。
無漏の正智なにによりてかおこらんや。
もし無漏の智釼なくば、いかでか悪業煩悩のきづなをたたむや。
悪業煩悩の絆を断ぜずば、何ぞ生死繫縛の身を解脱する事をえんや。
かなしきかな、かなしきかな、いかがせんいかがせん。
ここにわがごときは、すでに戒・定・慧の三学のうつはものにあらず、この三学の外にわが心に相応する法門ありや。
わが身にたへたる修行やあると、よろづの智者にもとめ、もろもろの学者にとぶらひしに、おしゆる人もなく、しめすともがらもなし。
しかるあひだ、
なげきなげき経蔵にいり、かなしみかなしみ聖教にむかひて、
てづから身づからひらきて見しに、善導和尚の『観経の疏』{散善義}にいはく、
「一心専念弥陀名号、行住坐臥不問時節久近、念念不捨者、是名正定之業、
順彼仏願故」
といふ文を見得て後、
われらがごときの無智の身は、ひとへにこの文をあふぎ、
もはらこのことはりをたのみて、念念不捨の称名を修して、
决定往生の業因にそなふべし。
ただ善導の遺教を信ずるのみにあらず、又あつく弥陀の弘願に順ぜり。
「順彼仏願故」の文ふかくたましゐにそみ、心にととめたる也。』 和語灯録
安方師はこう語られた。
行住坐臥不問時節久近、念念不捨者
このいつでもどこでもという言葉は、私たちの行いが往生には無功であることを示しています。捨てないのは仏なのですと。