言葉を超えた領域

私はこの「領域」という言葉が實円師の大発明だと思うのだが、それは直観。
なぜそう感じるのかを探ってみたいと思うからこの問いが出てきた。
 
さて、領域を他の言葉で置き換えてみよう。
最初に思い浮かんだのが「境地」。
「悟りの境地」「精神の境地」はかろうじて通じるが、外はだめ。
「境地」はあまりにも私たちの側に近い(俗っぽい)言葉なので当てはまらないのだろう。
そして、「覚りの境地」は仏のみの言葉で、
私たちの側でイメージとして受け止めることが難しい。
 
次に浮かんだのは「世界」。
私にはこの世界と領域を置き換えても違和感はない。
ただそういう世界とこういう世界があると世界の多様性を認めればだが。
でも、それでは別々の世界が並列に並んでいるというイメージが出てきてしまう。
また、世界という言葉は、外界という意味が強すぎる。
縁起として私たちがつながっているこの世を考える時に、「世界」は独立しすぎている。
そうすると、縁起も含めた言葉として領域という言葉はぴったりしてくる。
 
「精神の領域」は私たちの側の言葉で、
私たちの思考の対象たる領域と考えることもできる。
そして、そういう所を開く意味が読み取れる。
つまり、χ(何ものか)を対象化した言葉として。
 
もう一つ、領域という言葉の使い方として、辞書を引くと、
ある力、作用が及ぶ範囲。
用例として、「神秘の領域」とか「無意識の領域」「新しい領域」という使い方がある。
これは、とてもフィットする。
私たちの中にあるのだけれど、それをまだ認識していない場所としての領域である。
 
以上のことを踏まえて、最後に次の文を考察してみよう。
 
(10)例えば修行のことを「方便」ということがあるが、それは修行によって一歩一歩と真実の悟りに近づいていくからである。また仏陀の覚りの本体である一切の分別を超えた無分別智境界曇鸞大師に従って「法性法身」と呼ぶのに対して、その言葉を超えた領域を言葉で表し、形で示して、衆生に近づき、喚び醒ましていく大悲後得智のはたらきを「方便法身」と呼ばれている。
 
ここで、「領域」を「境界」に置き換えてみる。
 
(A)また仏陀の覚りの本体である一切の分別を超えた無分別智境界曇鸞大師に従って「法性法身」と呼ぶのに対して、その言葉を超えた境界を言葉で表し、形で示して、衆生に近づき、喚び醒ましていく大悲後得智のはたらきを「方便法身」と呼ばれている。
 
境界は境目だから意味は通じる。
しかし、後者は私たちと隔たった所というイメージが浮かぶ。
逆に、境界を領域に置き換えてみる。
 
(B)また仏陀の覚りの本体である一切の分別を超えた無分別智領域曇鸞大師に従って「法性法身」と呼ぶのに対して、その言葉を超えた領域を言葉で表し、形で示して、衆生に近づき、喚び醒ましていく大悲後得智のはたらきを「方便法身」と呼ばれている。
 
うまく言えないが、AよりもBの方がフィットする。
境目は分け隔ててしまうイメージがある。
では、實円師はBではなく、(10)と書き分けられたのか?
すると見えてくることは、無分別智は私たちの領域ではないということだ。
言葉を超えた領域は私たちに直接対しているが、
無分別智は私たちの領域とは言えないのだ。
 
さて、この文で「後得智」という言葉が気になったので調べてみた。
 
「仏教の説く智慧の一つで、「根本無分別智」の後に獲得される智慧
根本無分別智とは究極の真理である一味・平等の真如を無分別に見る智慧のことであり、その根本的な智慧を得たのちに、ふたたび現象的な差別の世界を分別をもって眺める智慧のことを後得智という。
 
真如を見る以前の「分別智」とちがって、この後得智はすでにそのなかから汚れがとり除かれ、清浄になって世間を観察するから、詳しくは「世間清浄分別智」とよばれる。この智によって具体的に世間の中で人びとを救済することができる。」
 
つまり、還相廻向をする智慧ということか。
私の分別智とは全く異なっている領域があるということだ。
でも、本来無差別な世界からどうやって差別的な多様な現象が生み出されるのか実に不思議である。