梯實円和上の「領域」

梯實円和上が5月に御往生されたと知った。
直接お会いしたことがなかったが、著書を通じていろいろ教えていただいた。
實円師の言葉に度々出てくる言葉があることに気がついた。
それは、「領域」という言葉である。
以下例をあげてみよう。
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(1)生死一如、自他一如、怨親平等。それが実相であり、如来や浄土の領域であること。
 しかし、凡夫である普通の人間は、自分を中心とした妄念の虚構の中で生きていながら、
 そのことに気づかず、実相・如来の領域については全く思いもよらない。
 
(2)浄土に往生し、仏陀としての悟りを完成させることを、真実の証と申します。
 その悟りの領域を真佛・真土といいますが、・・・
 
(3)そういうこの世を超えた領域の確認ができるのが、お念仏の世界です。
 
(4)その誓願がわたしどもの思慮分別のおよばない広大無辺な領域であることを
 
(5)このように本願の因に報いて完成された仏陀ですから阿弥陀仏は明らかに報身仏であり、
 その浄土もこの本願に報いて完成された領域ですから報土であるといわねばならないというのです。
 
(6)「生にとらわれて死を拒絶することも、死にあこがれて生を拒絶することも、ともに正しく人生を見ていない。 生死を越えるとは、生と死を真反対のこととして把える思考の枠を破って生と死を等分に見ていけるような視点を確立し、生きることも尊いことだが、死もまた尊い意味を持っているといえるような精神の領域を開いていくことだ。 」
 
(7)ところが自分が引き受けるしかない生と死を、しっかりとどちらも尊いものありがたいものとして引き受けるといった精神の領域を開こうとしたのが仏教だったのです。そのことを説いたお釈迦様の死は、弟子たちの目には死だと映らずに、完全な安らぎ偉大な安らぎの実現と映ったのでした。それを涅槃と呼んだのです。
 
(8)そういう別れとか死とうものを自らの心の中にどう受け止めていくか、そういう領域を宗教といいます。
 
(9)「私に死は存在しない。生まれて行くのです。」<死>というものを超えた領域があるとお釈迦様は覚られたのですから、<死>という概念を否定されたのでした。
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ここで、一つの問いが生まれる。
なぜ「領域」という言葉を頻繁に使われたのか?
 
なぜ、「さとりの世界」とか「見ることも想像することもできない真如解脱」と表されなかったのだろうか?或いは単に「浄土」とか「涅槃界」とか「大宝海」となぜ言われなかったのだろうか?
 
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