魂の回復運動としての念仏

次の言葉をずっと考えている。
 
親鸞の教え・言葉を答として握ってしまったら、そこに自分の身の真実を、
 生老病死を抱えているという身の事実を問い続ける視座が無くなってしまう。
 ・・・
 それは親鸞聖人を悪魔たらしめてしまう。」
                宮城顗師
 
答が先にあり、その答えを目標として現実の私を決めてしまう。
答を見出すために著書や善知識の言葉をさがして、それを当てはめようとする。
いや、自分の思いに、答としての言葉を当てはめようとするまちがい。
 
そういう「言葉を答として握ってしまう」私を見つめざるを得ない。
目標評価から出発していたことが、このことを促進していたと思い当たる。
これを知らしめられたとき、教え・言葉をどこまでも追求していく姿勢と
自分自身の身の「問い」としてとらえるという、極めて当たり前のことをするしかない。
 
一つ、思いついたことがある。
念仏は大事で、唯一の行として大事にしようと訴えている。
でも、それは単なる「スイッチとしての念仏」だった。
だんだんわかってきたのは、「魂の回復運動としての念仏」こそが必要だったのだ。
 
例えば、ふるさとの言葉がある。
ごがわく、だちかん、ためらって・・・この言葉を回復すると同じように念仏を回復する。
それは、魂の回復なのだ。
これは、宣言である。
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山の上の方は雪