念仏禅

なぜか黄檗宗の「念仏禅」について関心を持ってしまった。
 
『浄土五会念仏略法事儀讃』にいはく、
「それ如来、教を設けたまふに、広略、根に随ふ。つひに実相に帰せしめんとなり。真の無生を得んものには、たれかよくこれを与へんや。しかるに念仏三昧は、これ真の無上深妙の門なり。弥陀法王四十八願の名号をもつて、焉に仏、願力を事として衆生を度したまふ。{乃至}如来つねに三昧海のなかにして、網綿の手を挙げたまひて、父の王にいうてのたまはく、
王いま座禅してただまさに念仏すべし。あに離念に同じて無念を求めんや。生を離れて無生を求めんや。相好を離れて法身を求めんや。文を離れて解脱を求めんや〉と。
{乃至}それ大いなるかな、至理の真法、一如にして物を化し、人を利す。弘誓各別なるがゆゑに、わが釈迦、濁世に応生し、阿弥陀、浄土に出現したまふ。方は穢浄両殊なりといへども利益斉一なり。もし修し易く証し易きは、まことにただ浄土の教門なり。しかるにかの西方は殊妙にしてその国土に比びがたし。また厳るに百宝の蓮をもつてす。九品に敷いてもつて人を収むること、それ仏の名号なりと。
  (行文類より)
 
釈尊が父の王に勧めたのが念仏禅坐禅して念仏する)。すすめた理由が素晴らしい。
念を離れて無念を求める、生を離れて無生を求める、姿かたちを離れて法身を求める、言葉を離れて言葉の及ばない解脱を求める。そういうことが私たちにできるのか、できない。
念仏は、念を離れて無念を求めるのではない、生を離れて無生を求めるということもない、姿かたちを離れて法身を求める必要もない、言葉を離れて言葉の及ばない解脱を求める必要もない。
 
当然禅宗の方でも念仏禅があるということだと思っていたら、隠元さんが伝えたという。
もっと前には鈴木正三も念仏禅をすすめたという。
 
いろいろ調べていて、このサイトに出会った。
[PDF]禅と念仏の通路  西村恵信
「人間存在の二重構造」という言葉に惹かれた。
そして、キエルケゴールと鈴木大拙の念仏に至る。
 
また、メモになってしまった。