私たちの三願転入

先月のプチ法話会で話題になった「簡単には浄土へはいけない」

は宿題だった。
 
善いことをする、念仏をする、この身このままで、そうすれば浄土へ迎え入れられる。
 
実は
これらの言葉はすべて、親鸞さんの体験からきている。
皆さんの悩まれているように、親鸞さんも同じように悩まれたんですよ。
 
そのことを三願転入という言葉で書いておられる。
ご自身の体験は19願から20願へ
そして、20願から18願へ
そういう歩みであったと。
それは仏の智慧と慈悲の願であったと。
 
最初は、善いことをしてお浄土に参ろうとした。
これは19願に誓われている。
この願は、そのことが無理であることを自覚させるための仏の慈悲の願であり
私たちに至心で発願させようとする願だ。
 
そして、自分の行う善によって往生を求めることに絶望したもののために
「すでに悲願います。植諸功徳の願(20願)と名づく」
名号を与えて、救いとられようとされた。
だから、一生懸命に念仏をする。
 
それは自分が称える念仏であった。
親鸞さんにとっては、常行三昧堂での命がけの称名だった。
 
でも、称えているうちにやがて、
称えさせる仏の存在に気がつく。
称えている私ではなく、私をして念仏者たらしめている如来の本願力に。
そこに念仏の主体の転換がおこる。
それは単なる転換ではなく、
自己と世界(仏)がまだ未分化であった状態へと自分を連れ戻すような在り方である。
 
この20願から18願への転入は難しい。
難しいけど自然に導かれる。
 
「連れ戻す」のだから「そのまま」であるけど、
それは仏から私を見るという、世界の見え方が180度転換したようなことなのだ。
だから、20願は私たちへの至心に回向された願。
 
 
このことに関して、
三願転入から三木清
そして、フランクルの「もとに-有ること」と純粋経験
とつながってくる。
20願から18願への転入を何とか表現できないかと苦慮している。