学仏大悲心

昨夜第5回目の連研
今日は岐阜別院で3回目の本典勉強会

昨夜は話し合い法座をおこなった。
その話の中で、
「私は浄土へ往けるで幸せや」という人のことを紹介された方がいた。
その人は必ず浄土へ往けるのだから、そのまんまでいいというわけらしい。
だからもう聴聞も必要ないと言われたという。
紹介された方はそのことを憤慨しておられたのだが、
これは現代という時代を示している問題だと感じる。

そのまんまなら何も念仏の教えを聞く必要はない。
何もしなくても救われるのなら、宗教は必要ない。

そうではないことが大前提なのだが、その大前提が崩れているのだと思う。
自分中心に考え、仏と出遇わないで、自分自身の安心だけを求める、
そういう時代なのだと思う。
かといって、「このままでは地獄行きだ」と脅かすのも、
不安をますます助長することになる。

仏さまは、かくも情けない私たちの性根を悲しまれている。
そして、だからこその名号なのだ。

源佐さんの話
「その時から、死ぬちゅうのはどういうことか。
 親様っちゅうのはどんなものか。
 おらあ不思議でこのことが気になって仕事が手につかず夜も思案して年も暮れた」

源佐さんが18の時、父親が突然亡くなる。
その最後の言葉が、「おらが死んだら親様たのめ」

源佐さんはそれから30になるまで、この問いの答えを求めて求道の道に入る。