道と路

欧米人に「みち」のイメージを聞くと、分かれ道をイメージするという。
人生の道はいろいろあって、あの分かれ道でどちらに行ったのかでその後の人生が異なる。
どうやら、「みち」は人生をみちびく路線のようなものであるらしい。
 
漢字には「みち」に対応する語はたくさんある。
親鸞さんは「道」と「路」を明確に分けている。
 
いま、 まことに知ることができた。 善導大師の二河の譬えの中に 「四、 五寸ほどの白い道」といわれているが、 「白い道」 の 「白」 という言葉は 「黒」 に対するものである。
 「白」 とはすなわち、阿弥陀仏が因位のときにあらゆる行の中から選び取られた清らかな行であり、 浄土往生のために如来より回向された清らかな行であることをいう。 「黒」 とはすなわち、無明に汚れた行であり、 また、 声聞や縁覚、 人間や神々の修める煩悩のまじった善であることをいう。
 「道」 という言葉は 「路」 に対するものである。「道」 とはすなわち、第十八願の唯一信心の道であり、 この上ないさとりを開くすぐれた道である。 「路」 とはすなわち、 二乗・三乗の法、さまざまな行を修めなければならない劣った路である。 「四、 五寸」 とはすなわち、 衆生の心身を構成している四大・五陰にたとえたのである。』  信文類
 
白と黒、道と路を対比させながら、白道とは何かを示している。
辞書で調べると、
・道=頭を向けて進んでいくみち人の行うべきみち
・路=石を敷いたみち、また太みちをつなぐ横の連絡みち
と書いてある。
自力のみちが路であり、他力のみちが道ということだ。
 
そして、「念仏(者)は無礙の一道なり」と言われる。
この道は白道なのである。
信心の道は細いけれど、真っ直ぐな大道であり、私たちはその道を生涯をかけてたどるのだと。