「おのずからの現象」と「みずからの体験」

ジャガイモを収穫してから、切立のいきいき教室に参加した。
皆さん実に生き生きしている。
最後に「さようなら」の語源を示して「さようなら」を言った。
「左様なら」(そうであったなあ。そうであったなら。)
板書を消さないでほしいといわれた。

 

このところ『「おのずから」と「みずから」』という竹内整一氏の本を読んでいる。

この本は日本文化における「おのずから」成ったことと「みずから」成したことが別ごとではなく、その「あわい」に日本文化の特徴があるということを分析したもの。
私のことで例えると、前にやった「シムソン線と直極点とデルトイド」の証明は「おのずから」成ったのか「みずから」成したのかという問題となる。それを考えていたら、次のような図が浮かんできた。
最初の状態はこれ。つながっていない=関係がない
これが「おのずから」だんだん接近する
ある現象と自らの体験が接触したらその「あわい」が働きだす
そして、「あわい」方が大きくなる
現象はおのずから示し、その現象の必然性が体験の中で見えてくる。
こういう運動が「あわい」の働きではないか。
関係のなさそうなもの・ことがつながっていることがわかることは面白い。
でもこの最後の図は二つの領域が完全に一致することはない。

証明してから3週間以上経つのにまだ不思議な現象を感じている。