「南无阿弥陀仏」を説明するときいつもこの像の写真を見ていただく。
念仏の相をこんなに見事に表現しているコトは他には見当たらないからだ。
この図は拡大したり動かしたりして、他の位置からも見える。
六波羅蜜寺で直接見たときは、一方向からしか見えなかった。
本物を見たと感激したけど、360度だとこんなに違うんだ。
こうなると東京へ行って実物を見たくなるけど、それでも見たことにはならないのではないだろうか。
「この像」だけも私たちは全てを見ることができない。
ましてや、「念仏の体」は私たちには見ることができない。
ここには念仏を称える端から仏が口から現れたと書いてあるけど、
念仏それ自体が仏であることを示している。
「 空也上人がいた」 ( 念仏と遊行と介護)
念仏 見る私(そこに「見る」という創発が現れる)
こういう展示は、それそのものは掴みえないということを示してくれて、掴んだという思い込みを常にひっくり返してくれる。